Apr 24, 2017

While Reading a One-hundred-twenty-eight-year-old Book

Bought this collection of Bryant's poems at a thrift store. This book seems to have been published in 1889, and was presented to someone for her birthday on June 30, 1892. The message goes: "Wishing you many happy returns of your birthday!"

It was the late 19th century when there was not many advanced technologies or mass media (including books). I can imagine the people of the time obtained information through books or newspapers. However, information they could receive might have been limited, and they might not have had a television or a radio during this period of time. When I do some simple search on the internet, this information is found: "8XK became KDKA in 1920. KDKA received the first federal license and began broadcasting on November 2, 1920."  (https://en.wikipedia.org/wiki/Radio_in_the_United_States)


I wondered what it might have been like for this person to receive this book, and what this birthday present had meant to her. I wondered if even this collection of poems might have been important information. I don't know if she even liked it or not. I wonder what it meant in the late 19th century to receive a printed book from someone? It might mean a lot different than now today, where there are so much information through millions of copies of books, magazines, websites, schools, etc.


While reading this book today in 2017, one hundred and 25 years after it was presented to someone for a birthday gift, I imagined a lot of things when these people were still living.


Apr 16, 2017

ITシステムとその周辺についての妄想

ハーフマラソンで私は2時間10分程度を走り続け、完走ができた。自分にとっては初めてのハーフマラソン参加であった。それまで走りの大会に出るときは、イヤホンを付け、音楽などを聞きながら走ったのであったが、今回はそういったものはやめようと思った。自分の内側の声でも聞いてみよう、と何となく思ったのだ。二時間ぐらいひたすら無心で走るのも貴重だとも思えてくる。走りは祈りに適している、という仮説をずいぶん前に自分の中で出してみて、そのまま誰にも告げないまま、長い時間が経過したが、やはりただ走る、ただ居る、ただ座っている、ということをしてみたいと思った。


何かを想うということは妄想であり余分なことだ、と曹洞宗の偉いお坊さんがおっしゃっていたのをテレビを通じて聞いたことがある。十年以上も前のことだ。「息と一つになる」「何も考えない」というのが禅の姿だという。自分がしていることは、さしずめ、「妄想」であり「余分」がほとんどかと思う。

21キロメートルほど走り続けるのだから、そんなに妄想する余地はないだろうと思われるかもしれない。しかし、妄想は確実に生じる。ちょうど自分には虫歯があって、この日の前日から急に痛み始めたが、そんな中でも走っている最中は、さまざまの妄想が発生した。

ハーフマラソンのあとの数週間は、私はちょくちょく本を読んだ。三島由紀夫の『仮面の告白』を読んでいた。この作品を私は二十年以上前に読んだ。自分はまだ学生で、三島や太宰などのような文学者になりたいと思っていた。実世界のことなど、気にしたこともなかったので、これはアイドル歌手になりたがる幼稚園児か小学生のようなものだった。そんな四半世紀前の自分自身の心境や目に映っていた風景が急によみがえり、彼がしたためた「序文」が私の脳裏に浮かんだのだった。

その「若書き」の文面に学生だった私はひどく感化されてしまった。けだるく陽が注ぐ日曜日の図書館で私はこの文面に食らいつき、繰り返し繰り返し読んでいた。

その映像的記憶が、今の私に思い起こさせたものは、アルチュール・ランボーの「太陽はまだ熱かった。だが、もうほとんど地上を照らしてはいなかった。」で始まる詩であった。

ランボーのこの詩も私は少し違った時期に繰り返し読んでは、感銘を受けていた。なんら高尚なものはそこにはない。かねてから因縁を引きずっていた隣のクラスのグループと喧嘩で勝てた時の晴れがましさが、これに似ている。違うところといえば、文学や音楽は、その感動が生々しく再現できるところにある。その一方、喧嘩やスポーツで勝った時の感動は、どうも薄れてしまっている。負けた悔しさすらも、薄れがちかもしれぬ。残っているのは恨みつらみぐらいのもので、これはもはや、「耳なし芳一」を襲った亡霊のようなものだ。

そんなことを想いながら、私は部屋でレコードを聴いていた。モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』である。この録音はCDを通じて、何度も聴いたものだった。二十五年ぐらい前のことで、私は東京に住んでいた。秋葉原の石丸電気で買ったのだ。ここには古い音源の演奏CDやら、カルロス・クライバー(指揮者)の海賊版やらまで多く売っていて、週末のたびにこの店に足を運んだものだ。それのレコード盤を、半年ぐらい前だったか、ミシガンの自宅近所にあるThrift storeでたまたま同じ演奏(カラヤン指揮、ウィーンフィル)を見つけ、50セントぐらいで購入したわけだ。

『フィガロの結婚』は神様の視点で作られた歌劇なのではなかろうか、とつくづく思う。これをよく聞いていた二十代の頃の自分はモーツァルトの音楽にそんな神々しさなど感じなかった。二十五年の時が経ち、聞こえていなかったところが聞こえるようにもなった。さらに、別の曲目ではあるけれど、同じ作曲家によるピアノ協奏曲22番(バレンボイム・ピアノ&指揮/イギリス室内管)を最近の私は再び聞き直している。当時、絶妙さに感動していた一瞬の箇所にも、感動してしまう。初恋の瞬間が目の前で再現されたようなものだ。


文学や音楽は暇つぶしや享楽のためだけにあるのでもない、と感じる。それらは何かを見通す感覚をも育てうるのかもしれない。クラスで首をかしげざるを得ない行動をする者の行方が感覚レベルで推測できる。職場の環境、テレビ等でみた社会の状態も、トラブルの観点でいくと(これは職業上でも、自分の得意な領域なのだが)、推測はできる。歌詞やストーリーのとは違う、もっと底の部分において、言葉では説明のできない共通の法則性が音楽や文学にはあるように思える。

現在・過去・未来の一致を、この数年よく経験する。音楽を通じてだけでもない。それを思うにつけ、『神との対話』のある部分が浮かんでくる。「現在、過去、未来は同一である」らしく、そこから「祈る前にすでにその祈りは聞かれている」という言葉につなげていたのも私は思い出したのだった。

先月、内田光子のピアノコンサートが近所のコンサート・ホールで開催されると知り、初めて聴きに行った。すばらしい音楽に接すると、不思議な話だが、時間の超越を体験する。


ともあれ、自分はいろんな妄想を雑草のようにはびこらせているのだな、と私は思い、それから冒頭で取り上げたあの曹洞宗の偉いお坊さんのいう、座禅とは「息と一つになる」という言葉を思い出した。車の運転中だった。

「息と一つになる」
頭のどこかでそんなものが生じた時、方向機も付けずに無理やりこちらの車線に入ってくる乗用車があった。(この辺では毎日のようにあることだが。)

その瞬間、「たたみかけ」という言葉とその観念が私の頭に浮かんだ。これは天外 伺朗(SONYの技術者だった土井 利忠氏のペンネーム)がその著書に繰り返し述べていた概念だった。

ところで、土井 利忠氏についての記述をWikipediaから引用すると、
「東京工業大学卒業後ソニーに入社し、アンテナ、CAD、コンパクトディスクなどデジタル・オーディオ技術、ワークステーション「NEWS」、エンタテインメントロボット「AIBO」「QRIO」の開発を手がけたことで知られている。」
とある。

私が読んだのは『般若心経の科学』という題名の本だった。出版年は1997年だったと思う。ちょうど今から二十年前だ。新刊本として書店に並んでいたのをたまたま私は見つけ、立ち読みしてみた。面白そうだったので、買ってみた。その本を読んでからもう二十年になるのを思うと、時の経過の速さに驚く。私の自宅にその本はもはやない。しかし、「たたみこみ」についての説明が非常に印象が強く、その後の人生経験などをへて、ずっと頭に残り、補強されつつ現在に至っているようだ。

今から三十五年ほど前に亡くなった祖父や、二十五年ほど前に亡くなった祖母を思い出す際も、この概念を思う描くことがある。ずいぶん前に亡くなったはずの祖父や祖母がまだ近くにいる気がする。ひいお祖父さんすらも自分のそばにいる感じを時々覚える、と私は親戚に話したことがあった。
「たぶん本当にいるんだと思う。」と親戚は私に言った。
「本当にそうだったらいいよね。」と自分は言った。

小学校に入学したばかりの頃、三、四十代の自分と、七十歳を間近に控えていた自分と対話した時の情景(空想?)を思い出す。午後九時を少し過ぎたころで、部屋は暗かった。三、四十代の私は自分の幼い子供の安全や行動の問題のことをしきりに気に病んでいるようだった。七十歳直前の私は「責任」と「個人」という考えのもと、何かを私に語りかけていた。けれども、具体的に何を伝えていたのかは、七歳の自分にはまったく分からなかった。

七十歳直前の私が言っていたのが心に引っかかるようになったのは最近のことだ。それにしても、この七歳の頃の感覚は忘れないものだなぁと感心する。

人間は言い逃れをし続ける生き物だ
人間は、社会の中で生きていくに際しては、言い逃れをし続ける生き物だ。痛ましくも廃業、自殺にまでいたる事態に陥ることが多々起きていても、それでも同じことが繰り返される。ネット社会になって、隠ぺいが昔より難しくなった。ペヤングのゴキブリ事件などは、分かりやすい例だろう。この手の事例は、ネット以前の時代なら簡単に隠せて行けたはずだ。ブラック企業内で起きる自殺についても似たようなものかもしれぬ。大きな有名企業であろうとなかろうと、企業の存続を危ぶませるほどの影響が一気に出る可能性を抱えている。食品問題、自動車や付属部品の不具合問題、電信・通信問題、電力問題、原子力問題等、ニュースで流れてきたが、さらに複雑化するのではないだろうか。

システムの複雑化と問題の重大化
IT普及にともない、社会や企業内部の仕組みは複雑・細分化した。仕組みに無知な者や見識の足りぬ者がこれを管理することも生じよう。現場の作業者は自分の領域だけしか知らず、隣の席の者の行なう仕事の内容も影響度も全く知らない、ともなろう。そして、責任者が現場の仕事に無知な者であったら(どこでも起きうる話だ)、その先はどうなるか。その責任者が問題を未然に察知し、正しく対処できなければ、さらに上の責任者に報告も相談もできまい。適当に内密で丸め込み、火消しをした気になっている責任者もいるかもしれぬ。問題を問題と認識できない責任者も存在しうる。問題を問題と認識するのは、少々発達した人工知能程度にはなしえない業かと思うが、それにも及ばぬ人間が責任者を演じている場合もある。

細分化・分業化されれば、システムはほころびやすい。技術スキル以外のところ(コミュニケーション的なところ)でシステムが狂って、大小さまざまなインパクトも及びうる。日常の中でも障害は起きるが、その分析・判断・対策が適切でないと、大問題にもなろう。何か不都合なもの、大問題に繋がりかねない部分が内部で見つかったり、指摘されたとしても、隠ぺいしたい側と潔く対応したい側の攻防もある。潔さを求め指摘をしたほうが政治的に敗れ、退場する場合もあろう。

東京電力の例
学校を出るとすぐ東電学院という東京電力付属の学校に通い、電力のスペシャリストとして叩き上げられた木村敏雄氏など、技術者として問題点を上司に指摘していたものの、その言は葬られたわけだが、上司からすれば、「こいつは問題を大きくする面倒な奴だ」と、邪魔に思われるだけだったと思う。これは東京電力に限った話ではなく、今でもどこでもある話だ。ちなみに長年福島第一原発に勤めて、原子炉等の設計に従事したこの元東電技術者は、会社に不信感を抱き、福島における事故の十年前には退職したが、会社からは三年にわたって引き止められていたとのことだ。
不幸にも彼の恐れは的中し、2011年3月、福島第一の原子炉はメルトダウンし、爆発した。

木村氏:
「福島第一ってとにかくトラブルが多い。機器のトラブル。
その時に本当のことをなかなか話さない。
できれば役所とか行政にトラブルを流さないようにする。
流す時もなるべく自分達の都合のいいように。言うなれば隠蔽。」



問題は、一般的にいって、隠蔽によって以前よりも問題がさらに深刻で複雑なものになり、マグマのようにたまっていく。問題として発生した時には被害は予想より大きくなる。ハンドルできる範囲を超える事態にもなる。今日も、明日も、明後日も、来年も、こういったことは、身近なところでも起こりうる。原発に限った話ではない。

隠ぺいを続け、丸め込んだつもりになったり、うそをつき続け、逃れられないところまで追い詰められ、そこでどうしようもなく思って自殺する例は、私は子供のころからニュースで見てきたし、世の中では同じことがずっと繰り返されてきているのは悲しいことだ。自殺に至らなくとも、ダメージの大きいことに変わりはない。

先ほど言及した曹洞宗のお坊さんの、禅に関する話を引用してみたいと思う。

「妄想せんことや
 いわゆる前後裁断や
 その時その時 一息一息しかないんだ
 何か考えたらもうそれは余分や
 人間は名誉とか地位とか
 見栄とか我慢(わがまま)とか
 そんなものでいっぱいだ」

名誉、地位、見栄、わがままから離れた状態で生きていくのは、なかなか難しい。
少なくとも自分にも耳が痛い話だが、しかし、隠ぺいとか言い逃れとかは、こういうところから発生するわけだから、誰もが無縁ではいられない。

監査、報告等は、実際に対処する企業側からすれば面倒でやっかいなものだろう。しかし、こういう監視・監査の領域こそがますます重要にもなるのだと思う。監視したとて、すべてを拾い切るわけでもないから、企業や政府組織による隠ぺいや人災的事件は発生し続けるとは思うけれども。

そして、監視・監査する側の質も、問題になる。監視する者は、監視されることを必然的に要する。

そんな中、あたかも奇蹟か台風のように、水戸黄門や東山の金さん的な人や事象が発生し、日常の物語に新展開が生じ、面白くもなったりするのだろうが、それはまた別枠の話。

監視・監査が人工知能で完全に実施できる時期が来たとすれば、人間がそこで働く必要はもはやなくなる。あるいは、その種の仕事は趣味・レジャーとして行なうものとなる。そして、現在想定されていない、存在していない社会行動が、未来の仕事として発生、定着する、といったところだろうか。

賢い人工知能が導入されるにしても、経験や洞察力を持った人間の判断や創造性は必要だろう。
七十歳を目前にしていた自分自身が、七歳の私に語り掛けていたのはこんなことだったのか、と四十歳台になった今の自分が思い出してみる。が、たぶんこれで完全ではない。実際に経験しないことには、聞いた話を理解することはできない。

ところで、私をたいそう可愛がった祖父は今から三十五年ほど前に亡くなった。私は小学生であった。
葬式の場で私は弔辞を読み上げた。泣くまいと心してはいたが、堪えきれず、途中から嗚咽を上げ始めながらも、なんとか最後まで読みきった。隣で弟と妹がクスクス笑っていた。三十五年経った今でも、あの幾重にも折り曲げた和紙に綴られた文面を私は覚えている。

当時の家も近所も六年前の津波で流され跡形もないが、こういう葬式の場面は具体的な形で自分の中で動いており、この数十年来、消える気配はない。

祖父が亡くなったあとの祖母の様子も自分は覚えている。
「じいちゃんが生きていればもっと小遣いあげられたんだけど」
と繰り返し語っていた祖母の声を今も覚えている。
それを言い続け、祖父の亡くなった十二年後に、祖母も世を去った。

亡くなる少し前に私は、なぜか何の連絡もしないまま祖母のもとに会いに行っていた。そんなことはそれまでしたことがなかった。
小遣いをせびるとかではなく、ただ祖母の顔を見たいと思った。それだけだった。

祖母は私の急な訪問に驚いていた。それから、女学校時代の写真などをありったけ引っ張り出してきて、一枚一枚私に見せた。
私が急に来たものだから、何も用意するものがなかった、と言い、仕方なしにそこら辺にあった大判焼きを袋ごと私にくれた。

時間が迫って、私がそこを去ろうとしたとき、祖母は私の顔を覗き込んで、私の見栄えが上がった、としみじみ語った。私は「じゃあまた来る。」とさようならを言った。
それが祖母にこの世で会った最後だった。

年月はあっという間に過ぎる。三島由紀夫の小説に青臭い心を揺さぶられ、ださく気取っていたのは私の十代後半であった。が、その情景が四十歳を超えた自分の中で甦る中、そういえば自分の娘は、今年、その時の私と同じ年齢なのだ、と気がつく。
変なものだ、と不思議に思ったり、納得したりもする。

2011年の大震災をきっかけに妙にいろんな人と対話している気がしてならない。自分の生まれたころにはすでに他界していた曾祖父まで現れる。

ハーフマラソンの三週間後、私は別の村で開催された5㎞走大会に出た。舗装されていないぬかるみの道を26分ほどかけて走った。
5km走大会翌日の昼下がり、店で安物をあさりながら、四十歳代の自分は、なぜか七歳当時の自分と対話している気になっていた。
「まぁ、こういうことだ。何のことだか分からないだろうけどな。」と心の中で言った。

不思議なもので、祖父母、曾祖父、両親までも居合わせている気がした。「勢ぞろいだな」と私は思った。今日はEasterのためか、店内も駐車場も人気がなく、時間が止まったかのように静かだった。

Dec 20, 2016

[Lazy Talks Over Languages and Artifitial Intelligence (A.I.)] 言語と人工知能をめぐる取り留めのない話

Learning a new language is not just meant to try getting more communication channels. It is not even to get more job opportunities. I learn new languages because I want to become more self-conscious when I speak or write.  I am doing so because I want make the better use of my own languages through such an experience. When you learn a new language, you may be able to make friends with different types or characters than you had ever acquainted with. It might be true, and I agree that it is a great experience. But if that was to be the only goal, then nothing would be left for us when there is a time someday when Artificial Intelligence becomes fully capable of translating languages through human voices.
Used a marker to draw a view of Kesennuma, Miyagi, Japan (Before the 3.11 tsunami)
マーカーを使って気仙沼の風景を描画 (3.11津波以前)
Language should mean a lot more to us. Roughly speaking, in my opinion, an application of language means to clarify the thoughts, and to identify/define who you are in the society. I am feeling that the former (visualization of thoughts) and the latter (definition of self) are closely related to each other and, therefore, they always go together. When I write something, I can understand what I am thinking. I can also recognize what I don’t understand or what I am not fully convinced of in my head. By associating with people through languages, I feel I can realize where I am in that particular group or society, or how I should fit in. And it is commonly believed that, at the present time, we cannot sufficiently share our thoughts without a language.

To rephrase this, a language is a tool that allows us to think with, and it is a channel that helps define who we are as well as where we are.

When we hear about a foreign language, the first thing that come up to our head might be to think whether it be useful for us or not. We may probably start asking to ourselves, “Do I get better job opportunities if I study this language?” “Will it be beneficial to my specialty?” "Do I get new good friends?" or “Will get a chance I can date with a pretty woman?”
Regardless of whether it be practical or not, learning a new language can also help strengthen/sophisticate your first or second language. That is another advantage many people may not think so much. 

The reason for saying this is because I hear (and have heard) some people knowingly saying, “You should only learn your first language. Second language will screw your first language.” This makes me stop and think. I have always thought about it ever since when I was a kid. To my young ears, it sounded as though people were disagreed to bilingual individuals including myself. Wouldn't this be an indirect way to look down on someone who speaks or studies different languages? Are they simply jealous? Why then are there English schools everywhere, and people of every educational levels mention English anytime anywhere? I don’t know how much time I spent in my life to think about it. Time flies so quickly. Multiple decades have passed since this time.

"You should only learn your first language. Second language will screw your first language." - The people saying this are likely not good at any other language. And as far as I have observed these people, none of them seems to "truly" know their first language. I might be wrong because this is only based on my own experience. The resource I have got is pretty limited. - I feel I can understand what makes these people say what they want to say. I personally think what they say is "partly" true. But not always.

For some reason, this reminds me of people saying different things like these: "There are tons of junkies or violent crimes in America, we should stay away from there, I bet you won't be safe there. Systems don't work effectively, to the point of perfect stupidity. That's a sick country, the United States." or "There are tons of perverts and chikans (gropers) anywhere in Japan especially on the trains, and people just ignore other people in trouble and the police won't be be helpful either, just stay away, you ain't gonna be safe out there. Authorities are ridiculously lame. That's a sick country, Japan."
This is a captured image from the TV program "Yarisugi Toshi Densetsu". No copyright infringement intended. 
本画像はTV番組『やりすぎ都市伝説』から取ったものです。著作権侵害の意図はありません。
Back to the topic.
It is also interesting to know that the same words or statements can be either right or wrong, depending on who says it. When Mr. A says "1 + 1 = 2", people believe it’s right and nobody disagrees. But the result will be opposite, if Mr. B says the same thing. And if Mr. C says it, "1 + 1 = 2", opinions are split up into two or more and then people start to argue.

To extrapolate this a bit further, here is what I think. “The language I'd believed to be my first language was not the first language actually.  The "first language" is an entire set of my first and second (and even third, fourth, etc.) languages combined.” That is how I understand it when I reflect on my thought about what the first language is.
Suppose, as an innocent child, you were living happily with your parents, until one day someone comes up to you saying, “Your mom and dad will split up and go different ways from today, so can you decide which one you want to live with? You have to choose only one person.”

Unless you have any very bad memory or experience, we expect all the family members to be together. It doesn't matter how many family members in your family. If one of them is not present, the rest of the family would feel “something is missing”. There are no borders among the languages in your heart. There are no political or economic conflicts going on inside the individual's head.
Waiting for the 10K race to start. My result for this year was 55min 38sec.
People who support the idea “We only need the first language” often refer to their experience with “Kikoku-Shijo (帰国子女)”. In case you don't know who they are, Kikoku-Shijo is a group of people who spent some years outside of Japan because of their father’s business, and then returned to Japan. 

This idea is likely to be molded among an “average” group of Japanese, where they find fault with one of their classmates who came back from abroad. The “differences” they noticed from such "returners" are not favorable, unacceptable, or intolerable sometimes. The Japanese kids from abroad may not and act the same way, or think the same way . It's not a question of whether it is good or bad, but Japan is, more or less, a group-oriented society. "Different tastes or feeling" from the common perception can lead to a rejection or disagreement. - None of my family here (including myself) is a Kikoku-Shijo, by the way.
Through my own observation (including on myself), I think a stupid bilingual should still be stupid the same way even if he or she was monolingual. It is likely that a bilingual (or trilingual) person may have different views because of having experienced different cultures. But that is it. This can be cool. This person may or may not get job opportunities for this attribute. It all depends on the job market situation.   

I also have seen many people who were born and lived in Japan all his or her life, and they had no clue when there is a discussion over issues on manufacturing or Information Technology. There is no wonder if you are not experienced in any of these fields. Would it be fair to say this to those people?  “Are you sure you are Japanese? We are speaking in Japanese right now.”

However, I feel I want to say it to those who don't know or appreciate Sokeki Natsume (夏目漱石), Ogai Mori (森鷗外), Yukio Mishima (三島由紀夫), or Jun’ichiro Tanizaki (谷崎潤一郎) and their literary works. “Hey, you are proud of being Japanese and all, but don't appreciate any of these…? You can't look down on these bilingual Kikoku-Shijo fellows, saying they are shallow-minded or they don't know about the 'real' Japanese mind or culture.”

There are people who are also proud of them while looking down on people from some other countries. But many of these people don’t know much about the Manyo’shu (万葉集), the Tale of Genji (源氏物語), Kenji Miyazawa (宮沢賢治), Takuboku Ishikawa (石川啄木), or Hideyo Noguchi (野口英世).

This makes me feel, “Without the appreciation of these things, what kind of “Japanese-ness” is there to be left they are proud of?” - What makes them proud will be the registered nationality, or self-claiming of having lived in Japan all his or her life. That has nothing to do with the “Japanese mind, culture, or tradition". But after all, this sort of contradiction or irrationality can be seen anywhere on this planet. - It is kind of interesting when I think about it.
Imagine someone who enjoys seeing the cherry blossoms, while remembering the encounters or separations from some close relationship of long time ago. This person may start thinking about how wonderful it is to see his or her children grown so big, as well as how the life used to be in his or her old days.

These things are not Japanese invention. (I have just remembered someone saying, "Four seasons are only experienced in Japan".) The cherry blossom here can be a "variable" in this context or formula. Replace this variable with another, and the formula can be applied to anywhere else in the world. As a  Japanese, we will say “Ah, I am so thankful for being Japanese with all these!” when we are enjoying eating natto (納豆), white rice (ご飯), miso soup (みそ汁), or yellow pickled radish (たくあん).  The same thing, however, should be observed anywhere outside the country. There are many delicious foods in Japan. But after having been through these things, and having come back to home in the U.S., I feel, "Ah, there is nothing like the food you eat at home with your family or friends here in the U.S." We are a family of multi-cultures here, we eat Japanese, Mexican, and American food.

Look at the beautiful views outside while driving here in the Midwest, you want to be thankful for being in this place.

Some people start thinking about these things when you get older. I have to admit that I am approaching my old age day by day. Following are some of the things that make me feel I got older after having passed 40 or 45 years old.

1) Start having difficulty in reading books with small characters. It frustrates me when reading a thing somehow.
2) Translating from one language to another used to be fun, and I did it quickly or without difficulty when I was younger. Now I stay away from it, unless it is the work in my workplace.
3) I was speaking English, while thinking I was speaking Japanese. I was speaking Japanese, while thinking I was speaking English. I get slightly shocked when I notice it.
4) For some reason I am studying Esperanto intensely, and fancy that it’d be so cool if this language really prevails in the world as the principle global language.
I watched this Japanese TV program the other day, called “Yarisugi Toshi-Densetsu”. I was personally intrigued by what was being discussed. It was about the A.I. technology. The person who received an interview was mentioning a Paralympic game.
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During the interview, this person on the show says that, what is called, handicapped people may demonstrate higher performance than “normal” people in the future. Some of those people may be able to move an object of 200 kilograms (about 440.9lbs), while a “normal” person can only move 40 kilograms (about 88.1lbs). It’s not only about higher scores or results in Paralympic games, but it is also about our everyday environment in the future. He says a robot hand of nowadays can transcend the feel of warmth or coldness of the object the person touched. He then continues that it might be possible in near future that a person with a robot hand can brew coffee using his own hand. And it keeps upgrading like when a patch program is applied.
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This story reminds me of the word “Hybrid” or “Humanoid”. Then I start thinking that, what is called, “Aliens” might be included in this category. - The "New Types" who appear in the anime "GUNDAM" might also be aliens, hybrids, or humanoids.
From the anime "GUNDAM"
(* I don't own this image. No copyright infringement intended.)
I also think “Globalization” or “Internet Society” which has already been taking place might be in the same category. What would my great-grandfather say if he crawls out of his tomb and start living with me and my family? He would think we are aliens.
My recent boom is studying Esperanto thru smartphone app. Esperanto is an artificial language that was invented back in the 1800’s. It was aimed to be used as a global language. I heard there was a time this language was popular, but the popularity declined somewhere between the World War I and the World War II. Now it almost seems to be unknown, just like Ainu or something.
I am studying Esperanto with this app called Duolingo 
There is one thing I have discovered while studying this unpopular language is that I feel my spoken words have improved especially in my workplace. I feel I have come to better communicate with my boss and colleagues. My grammar seems to have become better. I wonder if the phenomenon is similar to someone who improves his or her work attitude or productivity by having a family or a child. As far as the language study goes, this synergistic effect was observed in a short period of time in my case.

I like success stories of someone who sang or play the piano in a shopping mall or something, to be uploaded on YouTube, and then it was widely known to the people in the world.  He might be forgotten in a year or two, but Piko-Taro might be one of them. He is known as the singer/dancer with “Pen-pineapple-apple-pen”. I don’t get the point of that song, but I like that. I am not sure why.
I asked Siri "Do you know "pen pineapple apple pen"? 
Siri's answer was this.
Cool thing about the Internet is that a great talent that had been hidden in the previous era can now get a spotlight and be known by the people all over the world. We don’t think it is special anymore now, but this communication across the borders via Internet (we are able to do that so easily at home) makes me feel teleportation technology has become available partially.
This is what Siri said when I asked some question...
Internet can give significant influences on humans, just like what an amplifier does to an audio player. Unintelligent or narrow minded people will only seek the path to justify themselves. This adds to their ignorance and narrow-mindedness through the Internet. People who earnestly seek opportunities will find them. Those who have will have more, and those who don’t have will lose what they have. Those who ponder or pray will do that even more, and those who live on gossip will be more attached to it. This is how the social polarization takes place and the segregation may become more distinct.

One day, with the advancement of A.I. technology, we may see a system that outperforms the human brain. If the “mind” is able to get duplicated/reproduced digitally, we humans have a chance to live in a virtual environment, where we can even choose and update our appearances, just like an avatar. Full digital treatment on our “mind” may allow us to travel to (or to inhabit) some other planet.
This is a captured image from the TV program "Yarisugi Toshi Densetsu". No copyright infringement intended. 
本画像はTV番組『やりすぎ都市伝説』から取ったものです。著作権侵害の意図はありません。
In the virtual environment, there are murders and suicides to take place still. This should literally mean a real “death”. Cyber police or some equivalent system will monitor, control, and arrest criminals. I can imagine privacy protection would be a very serious issue. Accidents and criminal cases will be more complicated as long as our technology advances.
Super Surveillance Society.
Our personal information can be retrieved through SNSs, smartphone apps, etc.
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If we know we are all made up of 0's and 1's, then we truly understand what the Heart Sutra says. ("[...] form is not different from emptiness, and emptiness is not different from form. Form itself is emptiness, and emptiness itself is form. Sensation, conception, synthesis, and discrimination are also like this.") Or it is at this moment when we realize we are a bunch of shadows in a simulation lab, or a “fabulous opera” as in Arthur Rimbaud's poem.

Humans and our activities will have been completely translated digitally, after a long way in our history since we started to walk on two feet, began to use tools, words, languages, money, and utilize monetary transactions with credit cards or bit coins. And still, technology keeps advancing at any moment.

Teleportation or time-machine might be no fantasy in a few decades. What if we have the technology that completely scans what we are made of, and then fabricate it at a designated location where we wish to go? It is the time when Doraemon’s “Dokodemo Door (To-Anywhere Door)” is in place for real.
From "DORAEMON"
(* I don't own this image. No copyright infringement intended.)
In the TV program, they say “we can acquire an eternal life” once a perfect digital technology can be applied to human brains. This made me imagine in my head like this. What if someone gets himself completely copied into the digital form and gets an eternal life? His “original” body dies and then goes to the traditional  heaven or pure land, so to speak, to discover that a better technology had already been applied to our forefathers ever since the beginning of the human history. He opens his eyes so wide to say, “Wow, this is what heaven is all about!”  God, Buddha, angels, bodhisattvas (or whatever you may call it) sees him to say, “Welcome! Good job on the earth. But, right here, we have better ones.”
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As A.I. technology advances, a product develops itself to obtain a self or super-self, and it might have different goal or objectives than humans of today or tomorrow, just like the workers and owners have different views when working together.
Drew this picture using MS Paint and my index finger...
Some say that advancement of A.I. to some level will make the current form of humans go extinct. It can be true. But this also reminds me of smaller scale of ending with someone or something. If you think about the fast growing technology, it is likely that humans will also experience even bigger scale of ending that what we have experienced. It might sometimes be mid-scaled and other times large-scaled.
I drew a view of Kesennuma before the 3.11 tsunami
3.11津波前の気仙沼の風景を描いてみた
For some reason, I sometimes remember Mr. Yamamura’s speech at Sophia University in July 2011. It was four months after the 3.11 tsunami hit the eastern part of Japan. I wasn’t at Tohoku where he made his speech, and I only watched it from YouTube.

Mr. Yamamura is a physician who practices medicine in Ofunato city of Iwate Prefecture, Japan. My birthplace, Kesennuma is a neighboring city from where he lives. He published the Kesenese (ケセン語) version of the New Testament of the Bible. It was translation directly from Greek to Kesenese. His house and hospital were also damaged by the tsunami on March 11, 2011. Throughout his speech was full of thoughts/insights on what he had learned from tsunami.
According to Mr. Yamamura, creatures are designed to conserve themselves, where they tend to produce similar kinds as children. But there are sometimes, what is called, a “defect” to be born, and many of them are destined to die or be unable to function in the world of norms. Now, when there is an enormous change in the outer world, the group of creatures called “defects” may be better suited to the new environment, and they start to prevail and demonstrate their power. This is how creatures have evolved themselves, says Mr. Yamamura.
If the conservative party doesn’t experience such an “unexpected” change through all time, ameba ends up being ameba. Mr. Yamamura says, “By repeating the process of evolution through huge changes, a human was created as a result. He then says that the 3.11 disaster in the Tohoku (North East region) Japan should be "His work of Creation" than a “Disaster”.   After all it doesn’t matter when or how we die, but it is how we live what matters, by using the time each of us are given.
There is something for us to feel sad or disappointed about, if the A.I. technology advances and the humans of today go extinct, or they move to outer space to find new homes. From some higher perspective, it might be good news showing one form of achievement by humans. From even higher perspective, it might be neither good nor bad. It might be neither happy nor sad. In such a moment of history, the “language” might no longer be necessary because it is such an unreliable medium.
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本画像はTV番組『やりすぎ都市伝説』から取ったものです。著作権侵害の意図はありません。

―――日本語(上記を厳密に日本語訳したものではありません。)―――
外国語を習得する目的は、コミュニケーションの領域を新たに獲得するためだけではない。職業選択の幅を広げるためだけでもない。今使っている自分自身の言語を、より意識的あるいは効果的に運用することにつなげるためでもある。新たな言語を学ぶと、新たな人々との交流も可能となる。今までと違った知人・友人ができるかもしれない。それ自体楽しくて良いことだと思う。しかし、それだけであれば、将来、人工知能による自動音声翻訳が現在のインターネットのように普及した場合、人間が外国語習得する意味はなくなるに違いない。

言語はそれほど一元的なものでもないと思う。大雑把に言って、言葉は思考を可視化する面と、社会における自己規定の面があると思う。しかも前者(思考の可視化)と後者(他者との関連性)はどうも連動している感じがする。書き言葉で綴ると、自分の考えが自分で分かってくる。分からない部分やあいまいな部分も分かってくる。また、他者との関連を通じて、自分の位置づけができるのかと感じる。現在のところ、言葉なしで他者と意思疎通することはできない。

換言すれば、言葉とは考えるためのツールであり、自分の社会的価値を規定するための窓口のようなものか。
外国語の学習というと、実用性の有無が念頭に置かれる。「これを習得すれば、いい仕事にありつけるに違いない」「これを学べば、学問に優位だ」「この言葉を操れば、友達が増えるあるいは異性にもてるかもしれない」などなど。 言語習得にはもう一つの面がある。実用性の有無にかかわらず、それは自分の第一言語や第二言語の強化や洗練のための役に立つという点。

あえてこういうのは、「母国語さえ習得できていればそれでよい。外国語は要らない」という知たりげな言葉を聞いてきたからで、そういうのを何十年と耳にし目にしては、足らぬ子供の頭で自分なりにいろいろ考えた。

「母国語さえ習得できていればそれでよい」と言いつつ、外国語が達者でない人々は多い。そういう人で本当に母国語にすぐれている人を私はいまだ知らない。

この種の説を唱えたい気持ちは分かる。背後にあるものも私は知っているつもりだ。たしかにそれは一面的には正しい。ただし一面的に正しいものでしかない。


なぜか、こういう話を聞くと、どこかで聞いた、こんな言葉を思い出す。「アメリカはジャンキーとか凶悪犯罪だらけだから近寄らないほうがいい、社会システムはちゃんと機能せず完璧にバカといったふうだし。あそこは狂ってる国だ」、「日本は変質者とチカンだらけの国だ、特に電車に乗ってみろ、一般人はそれで無視してるし、警察権力も無能で助けにならん。あそこは狂ってる国だ。」

ちなみに、同じ説を唱えるにしても、誰がそれを言うかで、意味も真実性も異なるというのは面白い。Aさんが「1+1=2」と言えば、それは真実であり異論・反論の余地もないが、Bさんが同じことを言ったら誰の目にも誤りだと判断される。そして、Cさんが言えば、「賛否両論」といった具合。

「母国語さえ習得できていればそれでよい」というのも真実の一部を切り取ったものであるが、じつは、それをさらに進めていくと、
「母国語と思っていた言語と第一、第二(第三、第四…)言語を集合させたものを総称で『母国語』とされる」という見解にたどり着く。じつは自分はこれを支持したい心境。

父親とも母親ともそれなりに仲良く暮らしてきたある日、

「今日、お父さんとお母さんは別々になるから、どっちに付いていきたいか、今決めてちょうだい」
と言われた時の子供の心境にも譬えられる。

よほどの悪い事情がない限り、家族の人数は何人であろうと、全員そろっていたいと思うものだ。一人でも不在だと、「欠けている」と感じる。心の中にある自分の言語に国境はない。政治ではないのだから。

「母国語さえ習得できていればそれでよい」という説を唱える人が建前上引き合いに出すのは、「帰国子女」という括りの人々のこと。「帰国子女」とは親の仕事の理由で海外に数年滞在した子供たちのことを指す日本語。これに対応する英語はない。帰国・転入してきた彼らから受ける「違和感」がそう思わせる。日本語の使用方法や行動・仕草に違和感を感じ、それについて同意できない、受け入れられない、あるいは見るに堪えぬ、と感じるのである。バイリンガルは考え浅く、物事を深く理解できない、ともされる。


ちなみに私も私の家族も「帰国子女」に該当しないので、第三者的に語ってみる次第。

実感として感じるのは、(自分自身を見ていて分かるが、)頭の良くないバイリンガルは、たとえ一か国語しか話さないとしても頭が良くないだろうということ。しかし、複数の文化で暮らしたことで、見える世界は多少違う。要は、ジョブ・マーケット上、需要があれば仕事をやっていくし、そうでなければそういうものだと了解する。それだけのことだ。

ただ、日本でずっと暮らし日本語だけを話す人でも、たとえば製造やIT関連の話や通常の仕事の話が日本語でも通じない人がたくさんいる。「この人ほんとに日本人だべが?」と思うけれど、それはどこの領域にいるかによるだけのこと。でも、森鴎外、三島由紀夫、谷崎潤一郎をよく知らない日本人に出会うと、「あら、このお方、ほんとに日本人だべが?これで帰国子女だのバイリンガルのこと引き合いに出して、日本を知らなぃだの『浅い』だの言えねぇべっちゃぁ」と正直思うのだが。

万葉集、源氏物語、宮沢賢治、石川啄木、野口英世をよく知らない日本人に会ったこともある。それらへの理解もないのに、どんな「日本らしさ」を誇るというのだろう、と単純に思うわけだ。結局は登録上の国籍と日本だけで暮らしてきたという自己申告に頼ることとなる。それはもはや彼らが強調する「日本の心、文化、伝統」とは別の物だ。しかし、そういう矛盾や非合理性こそは、地球上のどこの世界にも共通にあって、それはそれで考えてみると、結構興味深い。

桜の花を見、出会いや別れを思ったり、子供の成長や自分の昔の姿を思い出すのは、日本だけのことではない。桜にまつわる現象を公式とすれば、桜そのものは変数みたいなものだ。桜を何か別の物に置き換えれば、全世界に対応する事象として成立する。納豆、ご飯、みそ汁、たくあんを食ってしみじみ日本人であることを痛感し安心する心地は、これらの変数の置き換えで世界各地に対応できると思う。日本にはおいしいものは多いけれど、それを経て、アメリカで食う家庭料理にまさるものはないとしみじみ思うのもまた事実。車を運転中に臨むアメリカの自然に接し、生きている喜びをつくづく実感もする。

こういった考えに至るのは年齢を経てこそ、ではあるが、それにしても自分は日々老いているのだなぁと思う。40歳を超えて体験する老いの兆候はざっとこんな感じだ。

1)目の前の活字がとかく見づらい。字を読もうとした際、困った気持ちになる。
2)十代の頃は一つの言語から別の言語への切り替えを瞬時に意識的にできて、楽しかった。なのに年を取ったら、仕事でもない限り、それがやや面倒。
3)英語を話していたつもりが実は日本語だった。日本語を話していたつもりが実は英語だった。それに気づき、軽いショックを覚える。
4)エスペラント語習得にハマり、これがもっと普及し、世の中を席巻出来たら、みたいなことを空想する。

「やりすぎ都市伝説」という日本のテレビ番組で、人工知能についての特集があった。パラリンピックの映像が流れ、義足、義眼、車椅子等の利用者についての言及がされる。

番組でインタビューを受けた人の話によると、人工知能の発達により、将来、こうした方々のほうが今で言う「健常者」よりも高い能力を発揮するようになるかもしれない、という。いわゆる「健常者」が40キロの物を持ち上げられるのに対し、補助機を利用する人々は200キロの物を持ち上げるかもしれない。そうなるとパラリンピックの方が、オリンピックよりも高い成績を出すのみならず、普段の仕事でも能力に差が生じても不思議は無い、という話。

その話は私に「ハイブリッド」という言葉を連想させた。「ヒューマノイド」という言葉も頭をかすめる。現時点、「宇宙人」と言われるものの中には、こういう人種も交じっているかもしれない。『機動戦士ガンダム』における「ニュータイプ」もその部類かも知れぬ。

しかも、じつはすでに身の前で繰り広げられている「グローバル化」とか「ネット社会」もそれに関わる現象。三世代前のひいおじいさんが墓場から出てきて、我々家族と同居することになったらどうだろう。我々などは宇宙人と映るに違いない。

先に少し触れたけれど、じつは最近、スマートフォンのアプリを通じてエスペラント語を勉強するのにハマっている。エスペラント語とは、1800年代に考案された人工言語で、国際交流言語となるのを目的としたものだが、いっときのブーム(?)を過ぎてからは、あたかも死に絶えたのかと思うぐらいに認知されないものとなった。

実用性の期待されないこの言語を勉強していて感じるのは、普段の話し言葉(特に仕事の際に発する言葉)が、他人に伝わりやすくなった、ということ。他人に伝わりやすい文法で話すことができるようにもなった。子供を持ち、面倒を見るようになってから、仕事への態度が向上するようなものだろうか。外国語学習に限っていえば、短期間でその相乗効果が実感できる。

ショッピング・モールの楽器屋で弾いたピアノ演奏や歌声がYouTubeなどを通じて一躍脚光を浴びるといった話が私は好きだ。(一、二年後には忘れられているかもしれないが)Pen-pineapple-apple-penのピコ太郎も同様。スーザン・ボイルはテレビ番組であったけれども、インターネットの効果もかなりあったに違いない。私はテレビを一切見ないのだけれど、彼女の出たあのオーディションやその後の活躍等をYouTube経由で見聞きしている。

ネット社会のすばらしさは、それ以前は埋もれたままの筈の小さな芽が、一躍脚光を浴び、評価され、復活・発展をとげる可能性を持っていること。自宅にいながらにして国境を越えたコミュニケーションが自由に行えることは、ネットの普及で無自覚になっているかもしれないけれど、じつはテレポーテーションの一端を体験したようなものだ。

インターネットは音響アンプのような効果を個人にもたらしうる。狭い見識の者はますます見識を狭め無明に陥り、可能性を追求する者はますます可能性を見出す。持っている者はさらに持たされ、持たざる者は持っている物さえも失う。考える者はさらに考える機会を得、噂話に踊らされる者はさらに踊らされる。こうしてネット社会は「格差社会」に少なからず寄与している気もする。

人工知能の発達に伴い、人間の脳の機能を超えるものもできるかもしれない。少なくとも人間の脳つまり「心」というものがデジタル的に複製・再現できれば、人間そのものが仮想環境で生きていけることにつながる。デジタル化した人間の「心」が適切に処理できれば、人類の地球外移住も可能になるといった具合。

仮想環境での殺人や自殺も発生し、それは文字通りその人の「死」を意味する。サイバー警察またはそれに相当する権力による監視・取り締まり・逮捕も活発化するに違いない。プライバシー保護は、相当深刻な要素だろうと想像するし、さらにその手のビジネスの世話にならないともいけないだろう。事件や犯罪は人類の進化とともに相当複雑化するに違いない。

とまれ、0と1で我々自身が成立すると分かった時、それはまさに般若心経の「色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」を実感する時。我々はシミュレーション用の影、ないしアルチュール・ランボーのいう「架空のオペラ」だと真に理解できる瞬間なのか。

それは人間や社会の本質が、いよいよ究極的に可視化された状態なのかもしれない。二本足で立ち始め、道具・文字・言語を使用し、貨幣・クレジットカード・ビットコインを使用・流通させ、複数言語の習得・運用をつうじて思考を体系化・可視化させていった先にあるもの。

時空移動(テレポーテーション、タイムマシーンの実用)も数十年で可能になるかもしれない。出発地点でその人の全構成をスキャンし、到着地で復元すれば、「どこでもドア」の実現を見る。デジタル・データの移動速度の上限は私には分からないけれど、工夫とKAIZENで時間移動も不可能でないのだろうな、と夢想したりもする。

番組では脳のデジタル処理が可能になれば「永遠の命を得ることも可能に」と言っている。そこで自分は空想してみた。技術的にそれが可能になったとして、誰かがいざ実行したとする。かりにあの世があったとして、そちら側に行ったらば、じつは人類の最高技術以上によくできた再生の仕組みが、人類の始まりの時期からすでに用意されていて、「なんだ、天国とか極楽ってそういうことだったのか」と分かる、というオチ。「ごくろうさまでした。人間のテクノロジーとかここでは要らないのよね」となどと言われたりして。

人工知能も、発達すれば自我とか超自我とかを芽生えさせる段階に入り、今の人類とは目指す方向性も価値観も異なる存在となりうる。従業員と経営者で視点が異なるように。

ある水準以上に達した人口知能は、今いる人類を終焉させるという説がある。そういうものかもしれない。小さな意味における既存の人類終焉(のようなもの)は、数十年生きているだけでも経験する。テクノロジーの加速度をみても、人工知能が既存人類を中規模レベル、大規模レベルで終焉させるのもありそうな話だ。

それにつけても思い起こすのは、20117月に上智大学で講演した山浦玄嗣氏のスピーチだ。私は会場にいたわけではない。YouTubeで閲覧したのみだ。山浦氏はケセン語訳聖書を出版された方で、本業は岩手県大船渡市で病院を開業されている。このスピーチは3.11津波から4か月後に行われたものだ。彼の自宅も医院も津波の被害を受けている。スピーチの場では、やはりあの大災害をつうじた彼の実感が終始語られている。

山浦氏の言うには、生物というものは元来、保守的にできていて、親と同じような子供を産むようになっている、とのこと。しかしたまに「できそこない」と呼ばれるものができる。それらはたいがいはすぐに死んだりするものだが、たまたま外界の環境に大変化が起こって、逆にその「できそこない」のほうが生存に適する場合もある。その「できそこない」のほうが繁栄し、そのようにして生物は進化する、というのだ。

もしも保守的な側が「想定外」の環境の変化を経験せずに生き続けるとしたら、いつまでたってもアメーバのままで終わってしまう。環境の激変をつうじ進化を数々重ね、ついに人間というものができたのだと山浦氏は語る。彼は自らも体験した3.11を「災害」というよりもむしろ「創造の御業」と解釈していることが伺える。結局、自分たちがいつどう死のうと関係なく、与えられた時間に自分がどのように生きられるかが問題なのだとおっしゃっている。

人工知能の発達が進み、今の人類が終焉しようと、新人類が地球外に移住しようと、悲しむ部分もあるかもしれない。が、さらに高いところから見ると、それは享受すべき進化の結実であるかもしれない。さらに高いところから眺めると、それは善悪とか悲喜という範疇外の現象かもしれない。しかも、その頃にもなれば、もはや「言葉」という頼りない媒体は、必要なくなっている可能性さえあるのだ。