太宰治『富嶽百景』に引き寄せられて
「富士の頂角、広重ひろしげの富士は八十五度、文晁ぶんてうの富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。」という具合に始まるのが太宰治の『富嶽百景』であったのを自分は何度も何度も思い返しながら、フロリダ州オーランドにあるディズニーのパーク施設内を歩いていた。昭和十四年二月に発表された短編小説を心の中で反芻してしまう何かがあったに違いないが、とはいえその理由はあえて問わないようにしながら、二〇一三年のクリスマス休暇を背景とした心象を私小説風の文体で書き記したいと思う。
自分は家族と共にフロリダのオーランドで年末を過ごす計画を一年前から立てていて、一週間滞在するホテルも半年前には予約もしてあったのであったが、すべては家人に任せっきりで、自分はそれほど熱心ではなかった。というより寧ろ、本当なら行きたくないと思っていた。ディズニーにほとんど興味のない自分にしてみればディズニーリゾート行きは苦行としか思っておらず、職場の人に「ディズニーワールドって楽しいところなのですか?」などと真剣に聞いたりしていた。
Wikipediaによれば、"Orlando is a city in the U.S. state of Florida and a popular tourist destination."と冒頭にはあり、さらに気候に関する項目に行くと、"Orlando's climate has characteristics of a tropical climate, but is situated on the southern fringe of the
humid subtropical climate zone, and on the border of USDA Plant Hardiness Zones 9B and 10A."とある。
自分らの住んでいるミシガンではこの時期、連日、摂氏で氷点下であり、朝出勤する時だと氷点下二十度ぐらいの日もあったりで、しかも真夜中のように外は暗い。午後の四時半ごろには暗くなりだし、日照時間が短いのである。
夏の時期は夜九時半ごろまで明るくて、残業して帰宅しても、買い物、ドライブ、ジョギングの時間が確保できて、時間がたくさんあるように感じられ、それがいつもうれしさとか喜びを呼び起こすのであるが、冬はそれとは正反対になってしまう。そうはいっても、私はミシガンの自然や生活環境が好きだし、ここで仕事できることは私がこれまで過ごした中における一番の有り難い状況であると思っている。現に自分の妻は「老後はミシガンの気に入った地域に、気に入った外観と内装の家を買って、過ごしたい」と週末のドライブのたびに言って、家の品定めをしているのであった。
フロリダへ出発
12月21日の朝、真っ暗な中、家族と私はデトロイトの空港に向かった。空港は混んでいた。クリスマス休暇の時期、ミシガンから出ていく人がこれだけいるのであろう。我々はバッゲージに冬用コートをねじ込み、搭乗手続きをした。これらのバッゲージは、フロリダのホテルで受け取るのである。
飛行機に乗り、寒さに渦巻いた雲を突っ切って、二時間もすれば、明るい熱帯の地に到着する。
フロリダに到着
フロリダ州オーランド。熱帯植物がきれいに配列されており、道路は広々しており、どこも敷地が大きく、太陽がまぶしく照っている。ジーンズにTシャツ姿の我々は、夏場のような気候に身を置けた喜びで、声を挙げ、バスに乗り込み滞在先のホテルに向かい、チェックインを済ませ、預けていた荷物を受け取り、部屋に持っていき、あとはEPCOTまで出かけていって一日目を過ごしたのであった。
EPCOT
パーク内は混みあっており、自分は東京のJR亀有駅前にでもいるような錯覚にとらわれた。カナダ、英国、フランス、モロッコ、日本、米国、イタリア、ドイツ、中国、ノルウェイ、メキシコ、フランスといった異なる国々の風景や建物を模倣したワールド・ショーケースと呼ばれる場所が広がっているのであるが、ただ歩いているだけで楽しい心持になることに自分は気が付いた。夜になるとクリスマス・コンサートが催され、聖書の朗読と共にクリスマス・キャロルが歌われるのであるが、この催しはまことに圧巻であった。Touched by An Angelの印象的な一シーンを思い出した、と家人は自分に告げた。自分も実は同じことを思っていた。
ディズニーのパークの感想
ディズニーの特徴は、演出、衣裳、背景といった外観の多彩さと美しさ、外観の出し入れといった変化の巧みさ、歌と踊りのレベルの高さ、裏方の徹底したサービス精神が生み出す運用レベルの高さにあるのかもしれぬ。それが自分の肌の感触レベルで感じられたことであった。
換言すれば、統率と管理が異常なほど行き届いている印象を自分は受けたのだったが、それは北朝鮮や旧ソ連のような独裁者による恐怖政治的なものでもなければ、日本のような独裁者なしの独裁風潮によるものでもない。また、パーク内に発せられているこの楽しさや明るさは、当然、旧ソ連におけるショスタコーヴィチが交響曲第五番を巡って語られた「強制された歓喜」とは正反対のようであり、また、日本の繁華街や観光地でよく見られる「内輪だけのわざとらしいバカ騒ぎ」とも異なるように見受けられる。
自分はふと考えてみた。
統率、管理、歓喜も、国と文化によって、やや異なるらしい。
昔アメリカと日本とのあいだで起こった戦闘を調査するにつけ、作戦や実行における傾向の違いが見て取れ、そこが自分にはとても興味深い。ビジネスも戦争に似ているところがあるような気がしているのだが、あの戦争から何十年もたった現在においても、同様の差異が自分には感じられる。
パーク内は、どこも混雑してはいたが、待ち時間は意外なことに少ない。日本のディズニー・リゾートであれば二時間程度の待ち時間を要することがあっても別段不思議はない。
とまれ、自分が思い描いていたディズニー・ワァールドとは、だだっ広い荒野に動物を放し飼いにして、ディズニーの音楽が時々聞こえたり、ディズニー関連の漫画キャラクターが飾ってある場所であり、たしに遊園地らしきものもあるとはYouTubeやDVDで家人から見せられてはいたものの、それは飽くまで誕生日ケーキにくっ付けたお菓子か飾りもの程度のものだと思っていたのであったから、その予想はオーランドに来た初日で大幅訂正されることになった。
ショーの待ち時間でのことだった。日本人の若い男女二人連れが、後ろから日本語で何か失礼なことを大きな声でみずからの連れに向かって絶えず言っている。日本語を話す自分の存在を主張したい気持ちが伝わってくる。そうすることで自分の存在を認識する、という傾向が、特に東京、埼玉、千葉、神奈川で強いことを自分は思い出した。ところで、この彼は我々一家を中国系か韓国系だと思っているようで、直接こちらに話しかけてはこないものの、私の耳元でわざとらしく大きな声で日本語を話すのであった。意識的にせよ、無意識的にせよ、むやみに見下すような雰囲気を感じたが、それは一般的、慣習的なものである。自分も日本人なので、そういった背景はよく知っている。
子供も含め、我々は日本語を一切話していなかったから、非日本人だと思われたのに違いない。その雰囲気を察して、我々は日本語での会話にスイッチした。
「これ、ねぶた祭りの飾りみたいじゃん」
とか
「なんかこれ、センス的に『ちびまるこちゃん』っぽくね?」
などと言ったりした。
英語でこんなことを言っても、何を言っているのか理解はできないであろうから、我々は会話を日本語にしてみたのであった。
子を持つ親であっても日本の場合、ぞんざいな言い方を大仰にする傾向があるようで、彼らの話ぶりもそうであったから、それに同調して、「なにこれ!?すげえ!チョーかっけー!」的な言い方も彼らに聞こえるように、我々はしてみた。自分にとっては、遊びの一環である。
心得のないその日本人カップルは静かになった。
ハリウッド・スタジオ
二日目は、ハリウッド・スタジオと呼ばれる場所に出向いた。ホテルからバスに乗って十分程度するとそこに到着する。自動車によるド派手なスタントショーを見ることができた。別の日に乗るべくすでにファーストパスを用意していたタワー・オブ・テラー(恐怖のタワー)ではあったが、スタンドバイでも15分程度の少ない待ち時間で乗れるらしかったので、入場し、声を嗄らしてきた。エクストリーム・スタント・ショー(白熱スタントショー)では、複数の自動車とバイクの追跡ショーが行われ、商店街やトラック、出店のセットを使っての銃撃戦に発展した末、建物三階から悪役が撃たれ、て地面に落ちるシーンや、水上での逃走があった。間をはさんで、こうした撮影用の自動車の仕組みを種明かししたり、最後のほうでは、実際に放映される映像を見せたりするのである。
インディアナ・ジョーンズ・エピック・スタント・スぺクタキュラーも、インディージョーンズという映画の一シーンを撮影する、という状況設定で派手な撮影再現を見せるのである。
そのほかには3D映画などを見た。日没ごろには、ファンタズミックという非常に混みあうショーを見に行き、東京の有名花火大会を見終わった後のような混乱の中、滞在していたホテルに帰ったのであった。
アニマル・キングダム
三日目は、アニマル・キングダムと呼ばれる場所に出向いた。例によってホテルからバスに乗っていくのである。朝の早い時間帯に出かけるために通常よりも早起きをして出かけるのである。晴れていて、Tシャツ姿で歩くのにちょうどよい気候であった。乗り物に乗って、車体を大きく不規則に揺らしながら、凸凹の道を進みながら動物を見ていった。たった三日間ではあるが見回っていて、気づくことは、パークのそれぞれが異なるテーマを持っているらしいことと、飽くなき創意工夫と楽しさの追求であった。
ホテルへのバスに乗り込む際には、三人とも疲れが溜まっていた。と、そこへ日本人家族四人が乗り込んできた。母親が乳母車を畳まないままバスに乗り込んできた。日本では乳母車を畳まないことが多い。とはいえ、ここは日本ではない。運転手が、折り畳むよう告げた。しかし日本人の両親はヘラヘラした笑いを浮かべながら、何も言わずに無視して車内に入った。英語が分からなかったに違いない。その割に親の声が素っ頓狂に大きくて、場違いだった。車内は混んできたが、乳母車は広げたままだった。近くに座っていた男性が、畳んだほうがいい、と助言したが、無視されてしまった。その両親は頭から突き抜けたような声で、カリフォルニアのディズニーのこともたくさん語りあっていた。
日本では、電車内であれ、レストランであれ、海外の話を得意がってしている場面に毎日遭遇していたことを思い出した。「海外」に行ったことがステータスシンボルであるとともに、異文化の者による異文化の考えに対しては「郷に入っては郷に従え」という言葉で切り捨て、完結してしまう傾向のあることも自分は思い出した。
太宰治の『富嶽百景』では、富士山のふもとの河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて、宿泊先であった峠の茶屋に引返す途中のことが書かれてあるのも自分は思い出していた。
車窓から外を見やったとき、路傍に咲いていた月見草が太宰の注意をひく場面である。
「富士には、月見草がよく似合ふ。」
77年前に書かれたこの私小説を思い起こし、状況を重ね合わせては、自分も私小説風の雑記を書こうかとここフロリダ州のバスの中で思いあぐねていたのであった。
マジック・キングダム
四日目は、マジック・キングダムという場所に出向いた。朝方、Tシャツ姿ではやや肌寒かったが、正午に近づくにつれ、暑くなった。ザ・ホール・オブ・プレジデンツ(歴代大統領ホール)に立ち寄った。歴代大統領にまつわる展示物を見て回りながら、ショーの会場を待った。パークのそこかしこで見かける日本人がこの会場には一人もいなかったのは、予想通りであった。アメリカ人だけが来るのかと思いきや、中国語を話す集団が結構いる。インドなまりの英語も聞こえてくる。アメリカ人の場合、小学生らしき子供、ヤングアダルト、成人者、年配者らといった具合に、年齢は様々であった。アメリカの歴史を、映像と舞台を使って、歴代の大統領と絡めながら紹介するのである。思いのほか感銘深く、しかも楽しめる。こうした感銘は、日本人に目には見えない部分であり、今後も盲点であり続けると思われる。他のアジア人がそこに興味を持ち、足を踏み入れていることについて、家族三人で語ってみたりした。
パイレーツ・オブ・カリビアンやスプラッシュ・マウンテンに入場するまでの道すがらや、乗車の際には日本人が見返られる。人の集まる場所では、日本語を話す者、中国語を話す者、インドなまりの英語を話す者の整列の仕方や通り抜けの仕方にヒヤリとさせられる。これは良し悪しの問題ではなく、人口密度の比較的高いアジアの生活様式なだけではある。
スター・ツアーズは、娘の体調不良のため断念した。長時間浴び続けてきた直射日光と疲れと食べ過ぎによるものと思われる。
再度アニマル・キングダムへ
五日目は、アニマル・キングダムに再度出向いた。ワイルド・アフリカ・トレックというプログラムに参加した。会場の少し前に、園内に入り、ベストを着こんだ。我々を含めた三組が共に行動するのである。吊り橋をビクビクしながら渡ったことと、動物を見ていたこと、山道を歩いたこと、食事をしたことを自分は覚えている。また、顔に模様を塗ってもらった。気分を良くして、いくつも自分の顔写真を撮った。お気に入りの化粧姿とは、こういう風に自分の心に作用するものなのだろうか、と思った。
再度ハリウッド・スタジオへ
六日目は、ハリウッド・スタジオに再度出向いた。
ビューティ・アンド・ビースト(美女と野獣)のショーを見ながら感じ入るものがあったので、ステージの様子を写真に収め、忘備録としてFacebookにこう打ち込んでおいた。"Amazing thing about Disney shows is every action they take is so perfect and beautiful. Their singing is great and impressive with full of power and energy."
スタジオ・バックロット・ツアーというプログラムは、面白い。列車のようなものに乗って、映画シーンや作製現場を見て回れるもので、ついでに四日前に見たエクストリーム・スタント・ショー(白熱スタントショー)の裏側の様子も見れるのであった。ちょうどスタントショーの途中で、車が轟音を立てて、セットの裏側に来たり、観客の前に走って行ったりしていた。
その後、店で"The Imagineering Workout"という本を買った。Disney Imagineerたちが日々の創意工夫に関する覚書、アドバイスを書き記し、まとめたものである。ところで、Imagineeringとは、トヨタで使う「号口展開」のような、いわばディズニー起源の単語で、Imagine (imagineation)とEngineeringが合わさったものであるが、いかにもディズニーらしい用語である。Engineeringは自分も他人も楽しくて、ワクワクするものでありたい。不可能と思われるような夢や空想を形にしようと努力することがエンジニアリングである、というところに喜びと希望を見出した。しかもそれは建前だけのスローガンではないとも思えたのだった。
そこでふと思ったのは、1942年生まれ父親が高校時代に使っていた機械科の教科書である。自分の父親は日本の田舎町の高校に通った。以前、自分はその教科書を父からもらい受け、現在は自分の本棚に置いてある。
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現代の世界は平和的競争時代であって、国の水準を他国より優秀な地位におかなければ国の繁栄を握ることが困難である。繁栄がなされなければ国民の富もなし、安心もない。日本
は小さな島国であり、天然の資源が悲しいほど不足である。石油もなければ鉄鋼も貧弱である。
こういう国柄である以上何によって国を富ますかを考えれば、手近な手段として工業国立国以外に歩む道が見当たらない。水産国としては世界の注視をあびているが、水産関係は徐々
に苦しくなる立場におかれつつある。工業はだれにもじゃまはされない。工業立国以外に何があろうか。
日本の工業はしからば世界水準に達しているかどうか。世界水準に達していると思われる製品は微々たるものである。考えなければならない点は多く、また道もまた遠しの感がある。
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こうしてみると、じつに歴史を感じさせる論調である。
機械化による生活水準の向上を目指すあたりが、まことに昭和の流れであり、なかなか美しく、尊いものである。人々の仕事に没頭するさまが目に浮かぶ。
そして、21世紀である。物質は満ち足り、多くの場面において過剰にすらなった。食べ物や文房具品は、容易に手に入り、それほど大切に扱うこともない。電化製品は豊富であり、それらに囲まれて暮らしていることを特に意識することもない。
にもかかわらず、人々は「生きにくい」「生きるのがつらい」「夢も希望もない」という論調が日本のメディアの至るこころで目にするようになって久しい。停滞感、頭打ち感に満ちているのが、日本に住んで、通勤電車に乗って仕事に行っていた自分が見た普通の日本の風景であった。
エンジニアリングは、あの昔の教科書のまえがきのような、戦後復興といったものではなくなった。その日を生きるためのパンを得るのを唯一の目的にするのではなく、うれしさ、楽しさ、人との繋
がり、心の充実を通じた幸福感を追及するのも、大きな目的に組み入れる必要が出てきているように感じられる。
フロリダ最終日
七日目は最終日であった。場内を回っていた自分はいろいろの言語を耳にした。英語以外では、スペイン語、ポルトガル語、中国語、韓国語、日本語、フランス語が自分の耳に入ってきた。たったそれだけのことかもしれないが、趣味で外国語を学びたい気持ちになった。
空港に向かうバスを三人で待っていたところ、三日目に遭遇したあの素っ頓狂な声の日本人夫婦が、昆虫のように目をきょろきょろさせながら、自分らの後ろに来て、バスを待つ列に並んだ。
一分経ったかどうかという時に、その二人の子供がおしっこに行きたいと言った。「ええ!?ちょっとぉ!さっき、トイレ行きなって言ったじゃん!」と母親が非常事態のような声を上げた。「もぉ、何なのよ、ここまで来て!」
「すみませぇーん。荷物見ててもらっていいですかぁ?」と自分に言った。
「はい、いいですよ。」
「すぐ戻ってきます。」こう言って、夫婦は子供の手を引いて会場入り口のほうに足早に向かっていった。
人が集まった場所を分けて入って行っている様子を自分は遠くから見た。「すみません」も言えずに、とにかく小さい自分らの体を猫背のように曲げ、押し入っていき、怪訝そうに振り返られていた。
「やっぱり、日本でやってるようにしかできないんだよねぇ。日本に帰ったら、『自分はアメリカのことを何でも知っています』的な感じでエラそうにしてるんだろうねぇ。」と家人は言った。
「そういうものだって。そういう文化なんだから、文句を言ってもしょうがない。」と自分は言った。「アメリカ人にも、とんでもない非礼な人間っているしね。田舎の場合だと、アジア人が自分の視界に入ってきすらしないで、普通に無視する人とか、いたんだよね。そういや昔、バスで、『おいジャップ、今何時だ?』って時間を聞いてきたのもあったよな。」
今回、映画『パールハーバー』の撮影シーンを見に行ったのだった。純粋にアクションシーを楽しむものであり、実際とても面白かった。と同時に、自分の娘が数か月前に国語(英語)の授業で学んでいた日系2世アメリカ人の強制収容のことも、心のどこかに留めており、あとで家族三人で話をした。おそらくほとんどの日本人は、2世の歴史は知らない。そこまで知る必要がないのかもしれない。現に自分の両親も戦争を知らない。父親は赤ちゃんであったし、母親はまだ生まれていない。
自分の生家が、軍需工場とされていたことは写真を通じて確認できたが、それほど話を聞いたわけではない。暮らしが大変だったのは聞いている。私の父を腕に抱いたまま避難した祖母は、赤ちゃんだった父があまりに泣くので、敵国のパイロットに見つかる、と周囲に叱られ、その場を追い出されかけていた、と何度か語った。
空港行きのバスが来た。自分は彼らの荷物はそのままに、バスに乗り込んだ。飛行機に乗り遅れるわけにはいかない。それにしても、なぜ彼らは荷物だけを置いて、子供をトイレに連れていくのだろう?
バスの運転手は「あの荷物は持ってこなくていいのか」と問うた。自分は、あれは自分らのものではない、とだけ言って、中に入って行った。
帰宅
ミシガンの空港に到着した。雪の積雪は、まばらであった。寒さも、予想していたほどではなく、ずいぶん和らいでいるように思った。道は狭くて、ごみごみしているような気がした。自宅に到着すると、荷物を置き、少し休憩した。それから猫を迎えに行くため、ペットホテルに向かった。我々の猫はガラスに向こうでご飯を食べていた。
我々三人が近づいて、
「モモちゃん、モモちゃん」
と声をかけた。
今年二歳になったモモちゃんが振り向いた。
我々の姿を見るや否や、顔ハッとさせ、目を大きく広げた。
モモちゃんは家についてから、我々三人におもちゃにされまくった。
旅行中、我々は「モモちゃんはどうしているだろう」とずっと言っていたのだった。ネコ科の動物を見るとモモちゃんのことを言った。
招き猫の置物やアクセサリーを見て、「モモちゃん!」と言ったりもした。
家に帰ってきたモモちゃんは、三人にとっかえひっかえに遊ばれて、それからたくさん眠った。体がやや大きくなったように見えた。
(二〇一三年十二月三十日)
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