ハーフマラソンで私は2時間10分程度を走り続け、完走ができた。自分にとっては初めてのハーフマラソン参加であった。それまで走りの大会に出るときは、イヤホンを付け、音楽などを聞きながら走ったのであったが、今回はそういったものはやめようと思った。自分の内側の声でも聞いてみよう、と何となく思ったのだ。二時間ぐらいひたすら無心で走るのも貴重だとも思えてくる。走りは祈りに適している、という仮説をずいぶん前に自分の中で出してみて、そのまま誰にも告げないまま、長い時間が経過したが、やはりただ走る、ただ居る、ただ座っている、ということをしてみたいと思った。
何かを想うということは妄想であり余分なことだ、と曹洞宗の偉いお坊さんがおっしゃっていたのをテレビを通じて聞いたことがある。十年以上も前のことだ。「息と一つになる」「何も考えない」というのが禅の姿だという。自分がしていることは、さしずめ、「妄想」であり「余分」がほとんどかと思う。
21キロメートルほど走り続けるのだから、そんなに妄想する余地はないだろうと思われるかもしれない。しかし、妄想は確実に生じる。ちょうど自分には虫歯があって、この日の前日から急に痛み始めたが、そんな中でも走っている最中は、さまざまの妄想が発生した。
ハーフマラソンのあとの数週間は、私はちょくちょく本を読んだ。三島由紀夫の『仮面の告白』を読んでいた。この作品を私は二十年以上前に読んだ。自分はまだ学生で、三島や太宰などのような文学者になりたいと思っていた。実世界のことなど、気にしたこともなかったので、これはアイドル歌手になりたがる幼稚園児か小学生のようなものだった。そんな四半世紀前の自分自身の心境や目に映っていた風景が急によみがえり、彼がしたためた「序文」が私の脳裏に浮かんだのだった。
その「若書き」の文面に学生だった私はひどく感化されてしまった。けだるく陽が注ぐ日曜日の図書館で私はこの文面に食らいつき、繰り返し繰り返し読んでいた。
その映像的記憶が、今の私に思い起こさせたものは、アルチュール・ランボーの「太陽はまだ熱かった。だが、もうほとんど地上を照らしてはいなかった。」で始まる詩であった。
ランボーのこの詩も私は少し違った時期に繰り返し読んでは、感銘を受けていた。なんら高尚なものはそこにはない。かねてから因縁を引きずっていた隣のクラスのグループと喧嘩で勝てた時の晴れがましさが、これに似ている。違うところといえば、文学や音楽は、その感動が生々しく再現できるところにある。その一方、喧嘩やスポーツで勝った時の感動は、どうも薄れてしまっている。負けた悔しさすらも、薄れがちかもしれぬ。残っているのは恨みつらみぐらいのもので、これはもはや、「耳なし芳一」を襲った亡霊のようなものだ。
そんなことを想いながら、私は部屋でレコードを聴いていた。モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』である。この録音はCDを通じて、何度も聴いたものだった。二十五年ぐらい前のことで、私は東京に住んでいた。秋葉原の石丸電気で買ったのだ。ここには古い音源の演奏CDやら、カルロス・クライバー(指揮者)の海賊版やらまで多く売っていて、週末のたびにこの店に足を運んだものだ。それのレコード盤を、半年ぐらい前だったか、ミシガンの自宅近所にあるThrift storeでたまたま同じ演奏(カラヤン指揮、ウィーンフィル)を見つけ、50セントぐらいで購入したわけだ。
『フィガロの結婚』は神様の視点で作られた歌劇なのではなかろうか、とつくづく思う。これをよく聞いていた二十代の頃の自分はモーツァルトの音楽にそんな神々しさなど感じなかった。二十五年の時が経ち、聞こえていなかったところが聞こえるようにもなった。さらに、別の曲目ではあるけれど、同じ作曲家によるピアノ協奏曲22番(バレンボイム・ピアノ&指揮/イギリス室内管)を最近の私は再び聞き直している。当時、絶妙さに感動していた一瞬の箇所にも、感動してしまう。初恋の瞬間が目の前で再現されたようなものだ。
文学や音楽は暇つぶしや享楽のためだけにあるのでもない、と感じる。それらは何かを見通す感覚をも育てうるのかもしれない。クラスで首をかしげざるを得ない行動をする者の行方が感覚レベルで推測できる。職場の環境、テレビ等でみた社会の状態も、トラブルの観点でいくと(これは職業上でも、自分の得意な領域なのだが)、推測はできる。歌詞やストーリーのとは違う、もっと底の部分において、言葉では説明のできない共通の法則性が音楽や文学にはあるように思える。
現在・過去・未来の一致を、この数年よく経験する。音楽を通じてだけでもない。それを思うにつけ、『神との対話』のある部分が浮かんでくる。「現在、過去、未来は同一である」らしく、そこから「祈る前にすでにその祈りは聞かれている」という言葉につなげていたのも私は思い出したのだった。
先月、内田光子のピアノコンサートが近所のコンサート・ホールで開催されると知り、初めて聴きに行った。すばらしい音楽に接すると、不思議な話だが、時間の超越を体験する。
ともあれ、自分はいろんな妄想を雑草のようにはびこらせているのだな、と私は思い、それから冒頭で取り上げたあの曹洞宗の偉いお坊さんのいう、座禅とは「息と一つになる」という言葉を思い出した。車の運転中だった。
「息と一つになる」
頭のどこかでそんなものが生じた時、方向機も付けずに無理やりこちらの車線に入ってくる乗用車があった。(この辺では毎日のようにあることだが。)
その瞬間、「たたみかけ」という言葉とその観念が私の頭に浮かんだ。これは天外 伺朗(SONYの技術者だった土井 利忠氏のペンネーム)がその著書に繰り返し述べていた概念だった。
ところで、土井 利忠氏についての記述をWikipediaから引用すると、
「東京工業大学卒業後ソニーに入社し、アンテナ、CAD、コンパクトディスクなどデジタル・オーディオ技術、ワークステーション「NEWS」、エンタテインメントロボット「AIBO」「QRIO」の開発を手がけたことで知られている。」
とある。
私が読んだのは『般若心経の科学』という題名の本だった。出版年は1997年だったと思う。ちょうど今から二十年前だ。新刊本として書店に並んでいたのをたまたま私は見つけ、立ち読みしてみた。面白そうだったので、買ってみた。その本を読んでからもう二十年になるのを思うと、時の経過の速さに驚く。私の自宅にその本はもはやない。しかし、「たたみこみ」についての説明が非常に印象が強く、その後の人生経験などをへて、ずっと頭に残り、補強されつつ現在に至っているようだ。
今から三十五年ほど前に亡くなった祖父や、二十五年ほど前に亡くなった祖母を思い出す際も、この概念を思う描くことがある。ずいぶん前に亡くなったはずの祖父や祖母がまだ近くにいる気がする。ひいお祖父さんすらも自分のそばにいる感じを時々覚える、と私は親戚に話したことがあった。
「たぶん本当にいるんだと思う。」と親戚は私に言った。
「本当にそうだったらいいよね。」と自分は言った。
小学校に入学したばかりの頃、三、四十代の自分と、七十歳を間近に控えていた自分と対話した時の情景(空想?)を思い出す。午後九時を少し過ぎたころで、部屋は暗かった。三、四十代の私は自分の幼い子供の安全や行動の問題のことをしきりに気に病んでいるようだった。七十歳直前の私は「責任」と「個人」という考えのもと、何かを私に語りかけていた。けれども、具体的に何を伝えていたのかは、七歳の自分にはまったく分からなかった。
七十歳直前の私が言っていたのが心に引っかかるようになったのは最近のことだ。それにしても、この七歳の頃の感覚は忘れないものだなぁと感心する。
人間は言い逃れをし続ける生き物だ
人間は、社会の中で生きていくに際しては、言い逃れをし続ける生き物だ。痛ましくも廃業、自殺にまでいたる事態に陥ることが多々起きていても、それでも同じことが繰り返される。ネット社会になって、隠ぺいが昔より難しくなった。ペヤングのゴキブリ事件などは、分かりやすい例だろう。この手の事例は、ネット以前の時代なら簡単に隠せて行けたはずだ。ブラック企業内で起きる自殺についても似たようなものかもしれぬ。大きな有名企業であろうとなかろうと、企業の存続を危ぶませるほどの影響が一気に出る可能性を抱えている。食品問題、自動車や付属部品の不具合問題、電信・通信問題、電力問題、原子力問題等、ニュースで流れてきたが、さらに複雑化するのではないだろうか。
システムの複雑化と問題の重大化
IT普及にともない、社会や企業内部の仕組みは複雑・細分化した。仕組みに無知な者や見識の足りぬ者がこれを管理することも生じよう。現場の作業者は自分の領域だけしか知らず、隣の席の者の行なう仕事の内容も影響度も全く知らない、ともなろう。そして、責任者が現場の仕事に無知な者であったら(どこでも起きうる話だ)、その先はどうなるか。その責任者が問題を未然に察知し、正しく対処できなければ、さらに上の責任者に報告も相談もできまい。適当に内密で丸め込み、火消しをした気になっている責任者もいるかもしれぬ。問題を問題と認識できない責任者も存在しうる。問題を問題と認識するのは、少々発達した人工知能程度にはなしえない業かと思うが、それにも及ばぬ人間が責任者を演じている場合もある。
細分化・分業化されれば、システムはほころびやすい。技術スキル以外のところ(コミュニケーション的なところ)でシステムが狂って、大小さまざまなインパクトも及びうる。日常の中でも障害は起きるが、その分析・判断・対策が適切でないと、大問題にもなろう。何か不都合なもの、大問題に繋がりかねない部分が内部で見つかったり、指摘されたとしても、隠ぺいしたい側と潔く対応したい側の攻防もある。潔さを求め指摘をしたほうが政治的に敗れ、退場する場合もあろう。
東京電力の例
学校を出るとすぐ東電学院という東京電力付属の学校に通い、電力のスペシャリストとして叩き上げられた木村敏雄氏など、技術者として問題点を上司に指摘していたものの、その言は葬られたわけだが、上司からすれば、「こいつは問題を大きくする面倒な奴だ」と、邪魔に思われるだけだったと思う。これは東京電力に限った話ではなく、今でもどこでもある話だ。ちなみに長年福島第一原発に勤めて、原子炉等の設計に従事したこの元東電技術者は、会社に不信感を抱き、福島における事故の十年前には退職したが、会社からは三年にわたって引き止められていたとのことだ。
不幸にも彼の恐れは的中し、2011年3月、福島第一の原子炉はメルトダウンし、爆発した。
木村氏:
「福島第一ってとにかくトラブルが多い。機器のトラブル。
その時に本当のことをなかなか話さない。
できれば役所とか行政にトラブルを流さないようにする。
流す時もなるべく自分達の都合のいいように。言うなれば隠蔽。」
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問題は、一般的にいって、隠蔽によって以前よりも問題がさらに深刻で複雑なものになり、マグマのようにたまっていく。問題として発生した時には被害は予想より大きくなる。ハンドルできる範囲を超える事態にもなる。今日も、明日も、明後日も、来年も、こういったことは、身近なところでも起こりうる。原発に限った話ではない。
隠ぺいを続け、丸め込んだつもりになったり、うそをつき続け、逃れられないところまで追い詰められ、そこでどうしようもなく思って自殺する例は、私は子供のころからニュースで見てきたし、世の中では同じことがずっと繰り返されてきているのは悲しいことだ。自殺に至らなくとも、ダメージの大きいことに変わりはない。
先ほど言及した曹洞宗のお坊さんの、禅に関する話を引用してみたいと思う。
「妄想せんことや
いわゆる前後裁断や
その時その時 一息一息しかないんだ
何か考えたらもうそれは余分や
人間は名誉とか地位とか
見栄とか我慢(わがまま)とか
そんなものでいっぱいだ」
名誉、地位、見栄、わがままから離れた状態で生きていくのは、なかなか難しい。
少なくとも自分にも耳が痛い話だが、しかし、隠ぺいとか言い逃れとかは、こういうところから発生するわけだから、誰もが無縁ではいられない。
監査、報告等は、実際に対処する企業側からすれば面倒でやっかいなものだろう。しかし、こういう監視・監査の領域こそがますます重要にもなるのだと思う。監視したとて、すべてを拾い切るわけでもないから、企業や政府組織による隠ぺいや人災的事件は発生し続けるとは思うけれども。
そして、監視・監査する側の質も、問題になる。監視する者は、監視されることを必然的に要する。
そんな中、あたかも奇蹟か台風のように、水戸黄門や東山の金さん的な人や事象が発生し、日常の物語に新展開が生じ、面白くもなったりするのだろうが、それはまた別枠の話。
監視・監査が人工知能で完全に実施できる時期が来たとすれば、人間がそこで働く必要はもはやなくなる。あるいは、その種の仕事は趣味・レジャーとして行なうものとなる。そして、現在想定されていない、存在していない社会行動が、未来の仕事として発生、定着する、といったところだろうか。
賢い人工知能が導入されるにしても、経験や洞察力を持った人間の判断や創造性は必要だろう。
七十歳を目前にしていた自分自身が、七歳の私に語り掛けていたのはこんなことだったのか、と四十歳台になった今の自分が思い出してみる。が、たぶんこれで完全ではない。実際に経験しないことには、聞いた話を理解することはできない。
ところで、私をたいそう可愛がった祖父は今から三十五年ほど前に亡くなった。私は小学生であった。
葬式の場で私は弔辞を読み上げた。泣くまいと心してはいたが、堪えきれず、途中から嗚咽を上げ始めながらも、なんとか最後まで読みきった。隣で弟と妹がクスクス笑っていた。三十五年経った今でも、あの幾重にも折り曲げた和紙に綴られた文面を私は覚えている。
当時の家も近所も六年前の津波で流され跡形もないが、こういう葬式の場面は具体的な形で自分の中で動いており、この数十年来、消える気配はない。
祖父が亡くなったあとの祖母の様子も自分は覚えている。
「じいちゃんが生きていればもっと小遣いあげられたんだけど」
と繰り返し語っていた祖母の声を今も覚えている。
それを言い続け、祖父の亡くなった十二年後に、祖母も世を去った。
亡くなる少し前に私は、なぜか何の連絡もしないまま祖母のもとに会いに行っていた。そんなことはそれまでしたことがなかった。
小遣いをせびるとかではなく、ただ祖母の顔を見たいと思った。それだけだった。
祖母は私の急な訪問に驚いていた。それから、女学校時代の写真などをありったけ引っ張り出してきて、一枚一枚私に見せた。
私が急に来たものだから、何も用意するものがなかった、と言い、仕方なしにそこら辺にあった大判焼きを袋ごと私にくれた。
時間が迫って、私がそこを去ろうとしたとき、祖母は私の顔を覗き込んで、私の見栄えが上がった、としみじみ語った。私は「じゃあまた来る。」とさようならを言った。
それが祖母にこの世で会った最後だった。
年月はあっという間に過ぎる。三島由紀夫の小説に青臭い心を揺さぶられ、ださく気取っていたのは私の十代後半であった。が、その情景が四十歳を超えた自分の中で甦る中、そういえば自分の娘は、今年、その時の私と同じ年齢なのだ、と気がつく。
変なものだ、と不思議に思ったり、納得したりもする。
2011年の大震災をきっかけに妙にいろんな人と対話している気がしてならない。自分の生まれたころにはすでに他界していた曾祖父まで現れる。
ハーフマラソンの三週間後、私は別の村で開催された5㎞走大会に出た。舗装されていないぬかるみの道を26分ほどかけて走った。
5km走大会翌日の昼下がり、店で安物をあさりながら、四十歳代の自分は、なぜか七歳当時の自分と対話している気になっていた。
「まぁ、こういうことだ。何のことだか分からないだろうけどな。」と心の中で言った。
不思議なもので、祖父母、曾祖父、両親までも居合わせている気がした。「勢ぞろいだな」と私は思った。今日はEasterのためか、店内も駐車場も人気がなく、時間が止まったかのように静かだった。