Dec 30, 2013

[Mistranslation and the Rumors] 誤訳と風評のこと

First of all, please let me say I don't have an intention of going into this controversial political issue regarding the Yasukuni Shrine or anything of that sort. That's none of my business. I am not even keen on that.
 
As a translator, however, I thought I had to write this post to mention how the English statement from the U.S. government has been misinterpreted by a Japanese upper house person without the good knowledge of the English language.  - He should have called or e-mailed me in advance.
 
Here is the Mr. Masahisa Sato's post.
https://www.facebook.com/masahisa.sato.775/posts/557317064363150
 
Here is the news article
http://www.huffingtonpost.jp/2013/12/29/masahisa-sato-yasukuni_n_4514036.html 
 
Statement on Prime Minister Abe's December 26 Visit to Yasukuni Shrine
http://japan.usembassy.gov/e/p/tp-20131226-01.html
 
 Following is an excerpt from the post of the Japanese upper house member.

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「日本は大切(valued)な同盟国であり、友好国である。しかしながら、日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化(exacerbate)させるような行動を取ったことに、米国政府は失望(disappointed)している。
 
米国は、日本と近隣諸国が過去からの微妙な問題に対応する建設的な方策を見いだし、関係を改善させ、地域の平和と安定という共通の目標を発展させるための協力を推進することを希望する。
 
米国は、首相の過去への反省と日本の平和への決意を再確認する表現に注目する。」

disappointed
がどれほど強い表現なのか、佐藤にはregretよりは軽い表現にも思えるし、文脈そして日本語感覚的には「失望(望みを失う)」ではなく、大切な同盟国(valud ally)の日本のリーダーが取った行動は「残念」に思う、と言った感覚のように思える。
  ()
 
佐藤なりに声明を訳すと

「日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかしながら、日本の指導者が近隣諸国との緊張をより高めるような行動を取ったことを、米国政府は残念に思っている」
となる。印象が違うと思う
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It is a simple mistake that he treated and disucussed "disappoint" and "regret" on the same platform when trying to interpret that official statement from the U.S. government.
 
I start considering why he had to compare "regret" to “disappoint" and say which word is a stronger statement. He must have thought "disappoint" had to be translated as "遺憾である" which is considered less than “失望している”.

遺憾である, by the way, is a cliché often used by politicians or top level leaders in such oocasion where he or she was asked to comment on any accident or unfortunate event that has occurred in his or her company (or organization). It can be translated as “I feel sorry to hear that” in most cases.  Mr. Sato says the statement “disappointment” from the U.S. government has to be translated more lightly than the “regret” (遺憾である, I feel sorry to hear that).

'残念である' he used should have to be “I feel sorry to hear that” in English.
失望” (disappointment) that Mr. Sato claims it is a wrong translation is actually a correct translation. – Once again, this is NOT a political point of view. It is just a translation issue I want to speak about here. I almost don’t know anything about the shrine issue, and I am not interested in it. I don’t care if the prime minister visits there, or people like that or not.
 
Mr. Sato writes that he feels "disappoint" is meant to have been used lightly - even lighter than "regret" and the statement should be interpreted as a general statement to take the balance, and should not be taken as a strong statement.
 
His intention of the post is that he was dissatisfied with the mass media has deliberately selected only a part of it with a mistranslation, and has been brought to the attention of the Japanese citizens in order to put them into an anxiety or confusion.
 
Looking into his Facebook page, he has earned 400 likes and a huge number of comments, where some state, “They cannot tolerate what the mass media's been doing” or “America has no right to say this to Japan because they are even worse. They dropped atomic bombs.” Only a few posted his (Mr. Sato's) interpretation was completely wrong, but I don't think these would bring the people's attention. Majority of the comments are hysterical ones, accusing the wicked intention of the mass media. - Verily, verily, studying languages is not easy.
 
Observing them all - the mass media, the politicians, and the Japanese-speaking people on the internet – something is wrong in every one of them. People get furious from what they have heard from the misinterpretation/ mistranslation.
 
There is a sentiment among the Japanese in general that they want to look down on or detest Chinese or Koreans by focusing on the news or topics mentioning these non-Japanese Asians’ mischiefs or poor behaviors. My concern is they appear to lift themselves up by finding fault of others, and do not look at themselves. I know, as an individual, this tendency is what every one of us has in common, regardless of where we live on this planet. But looking into SNS or comments on Yahoo Japan news, I am always reminded of the sentiment spreading among the people before the World War II broke out.
 
Translation should be more important. I know all of the Japanese go schools and study English for years and years. Some of them talk much about the English language they have studied. The problem, however, is sometimes they are completely wrong, including the political post from Mr. Sato.
 
I have just remembered what I was talking about with someone on the road. He came from Japan, who wanted to pee at the corner of on a sidewalk. He had been talking badly about other non-Japanese Asians because they talk loudly or they don’t use bathrooms nicely. Changing that subject, I started to explain that nobody here do not want to pee outside, even though we Japanese don’t hesitate to pee at a building, walls, or poles while walking outside. He became upset and said cynically, “Does that mean Americans don’t pee at all?! Are you saying they are greater and more cool-looking people than the Japanese? Don’t be fantasized. We are all same human beings!”
 
Even with this episode, I am still taking about translation issues. - I don’t care about politics but I do care about translation issues.

フロリダ百景


太宰治『富嶽百景』に引き寄せられて

「富士の頂角、広重(ひろしげ)の富士は八十五度、文晁ぶんてうの富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。」という具合に始まるのが太宰治の『富嶽百景』であったのを何度も思い返しながら、フロリダ州オーランドにあるディズニーのパーク施設内を歩いていた。昭和十四年二月に発表された短編小説を心の中で反芻してしまう何かがこの風景にあったのかもしれないが、特にそれ以上は考えぬようにしつつ、二〇一三年のクリスマス休暇をめぐって自分の心に映った風景を私小説風の文体で書き記したいと思う。

自分は家族と共にフロリダのオーランドで年末を過ごす計画を一年前から立てていた。一週間滞在するホテルも半年前には予約してあったのであったが、段取りのすべては家人に任せっきりで、自分はそれほど熱心ではなかった。というより寧ろ、本当なら行きたくないと思っていた。ディズニーにほとんど興味のない自分にしてみればディズニーリゾート行きは苦行としか思っておらず、何度か行ったことがあるという職場の人に「ディズニーワールドって、実際のところ、楽しいところなのですか?」などと真剣に聞いたりしていた。

Wikipediaによれば、"Orlando is a city in the U.S. state of Florida and a popular tourist destination."と冒頭にはあり、さらに気候に関する項目に行くと、"Orlando's climate has characteristics of a tropical climate, but is situated on the southern fringe of the
humid subtropical climate zone, and on the border of USDA Plant Hardiness Zones 9B and 10A."とある。

我々の住んでいるミシガンではこの時期、連日、摂氏で氷点下の気候にあって、たとえば朝出勤する時だと氷点下二十度ぐらいの日もあったりもし、日の出も遅いので、家を出るころはまだ真夜中のように周囲は暗い。午後の四時半ごろには暗くなりだすし、日照時間が短い。

その反面、夏の時期は夜九時半ごろまで明るく、残業して帰宅しても、買い物、ドライブ、ジョギングの時間が確保できて、時間がたくさんあるように感じる。それが私にうれしさとか喜びをもたらすのであるけれど、そう思うとやはり冬はさびしいものだ。とはいっても、私はミシガンの自然や生活環境が好きだし、ここで仕事できることは私がこれまで過ごした中における一番の有り難い状況であると思っている。現に自分の妻は「老後はミシガンの気に入った地域に、気に入った外観と内装の家を買って、過ごしたい」と週末のドライブのたびに言って、家の品定めをしているのであった。


フロリダへ出発

12月21日の朝、闇の中を車で走りながら、家族と私はデトロイトの空港に向かった。空港は混んでいた。クリスマス休暇の時期、ミシガンから出ていく人がこれだけいるのであろう。我々はバッゲージに冬用コートをねじ込み、搭乗手続きをした。これらのバッゲージは、フロリダのホテルで受け取るのである。

飛行機に乗り、寒さに渦巻いた雲を突っ切って、二時間もすれば、明るい熱帯の地に到着する。



 フロリダに到着

フロリダ州オーランド。熱帯植物がきれいに配列されており、道路は広々しており、どこも敷地が大きく、太陽がまぶしく照っている。ジーンズにTシャツ姿の我々は、夏場のような気候に身を置けた喜びで、声を挙げ、バスに乗り込み滞在先のホテルに向かい、チェックインを済ませ、預けていた荷物を受け取り、部屋に持っていき、あとはEPCOTまで出かけていって一日目を過ごしたのであった。


EPCOT

パーク内は混みあっており、自分は東京のJR亀有駅前にでもいるような錯覚にとらわれた。私が記憶している数少ない「東京」の一つが亀有なのだった。それはどうでもいいとして、ここEPCOTではカナダ、英国、フランス、モロッコ、日本、米国、イタリア、ドイツ、中国、ノルウェイ、メキシコ、フランスといった異なる国々の風景や建物を模倣したワールド・ショーケースと呼ばれる場所が広がっており、ただ歩いているだけで楽しい心持になることに自分は気が付いた。夜になるとクリスマス・コンサートが催され、聖書の朗読と共にクリスマス・キャロルが歌われるのであるが、この催しはまことに圧巻であった。Touched by An Angelの印象的な一シーンを思い出した、と家人は自分に告げた。自分も実は同じことを思っていた。


ディズニーのパークの感想

ディズニーの特徴は、演出、衣裳、背景といった外観の多彩さと美しさ、外観の出し入れといった変化の巧みさ、歌と踊りのレベルの高さ、裏方の徹底したサービス精神が生み出す用レベルの高さにあるのかもしれぬ。それが自分の肌の感触レベルで感じられたことであった。
 

 
  
 
  

換言すれば、統率と管理が異常なほど行き届いている印象を自分は受けたのだったが、それは北朝鮮や旧ソ連のような独裁者による恐怖政治的なものでもなければ、日本のような独裁者なしの独裁風潮によるものでもない。また、パーク内に発せられているこの楽しさや明るさは、当然、旧ソ連におけるショスタコーヴィチが交響曲第五番を巡って語られた「強制された歓喜」とは正反対のようであり、また、日本の繁華街や観光地でよく見られる「内輪だけのわざとらしいバカ騒ぎ」とも異なるように見受けられる。

自分はふと考えてみた。
統率、管理、歓喜も、国と文化によって、やや異なるらしい

昔アメリカと日本とのあいだで起こった戦闘を調査するにつけ、作戦や実行における傾向の違い見て取れ、そこが自分にはとても興味深い。ビジネスも戦争に似ているところがあるような気がしているのだが、あの戦争から何十年もたった現在においても、同様の差異が自分には感じられる。

パーク内は、どこも混雑してはいたが、待ち時間は意外なことに少ない。日本のディズニー・リゾートであれば二時間程度の待ち時間を要することがあっても別段不思議はない。

とまれ、自分が思い描いていたディズニー・ワァールドとは、だだっ広い荒野に動物を放し飼いにして、ディズニーの音楽が時々聞こえたり、ディズニー関連の漫画キャラクターが飾ってある場所であり、たしに遊園地らしきものもあるとはYouTubeやDVDで家人から見せられてはいたものの、それは飽くまで誕生日ケーキにくっ付けたお菓子か飾りもの程度のものだと思っていたのであったから、その予想はオーランドに来た初日で大幅訂正されることになった。

ショーの待ち時間でのことだった。日本人の若い男女二人連れが、後ろから日本語で何か失礼なことを大きな声でみずからの連れに向かって絶えず言っている。日本語を話す自分の存在を主張したいそんな気持ちがビシビシ伝わってくる。そうやって自分の存在を確認する、という傾向が、特に東京、埼玉、千葉、神奈川で強く感じたものだ。そんなことを自分は思い出した。ところで、この彼は我々一家を中国系か韓国系だと思っているようで、直接こちらに話しかけてはこないものの、私の耳元でわざとらしく素っ頓狂で落ち着きのない大きな声で話すのであった。意識的にせよ、無意識的にせよ、むやみに見下すような雰囲気を感じたが、それは一般的、慣習的なものである。自分も日本人なので、そういった背景はよく知っている。

子供も含め、我々は日本語を一切話していなかったから、日本人でないと彼らは思ったに違いない。その雰囲気を察し、我々は日本語での会話にスイッチした。
「これ、ねぶた祭りの飾りみたいじゃん
とか
「なんかこれ、センス的に『ちびまるこちゃん』っぽくね?
などと言ったりした。

英語でこんなことを言っても、何を言っているのか理解はできないであろうから、我々は会話を日本語に変え、彼らに聞いてもらったのであった。

興味深いことであるが、日本では親までも、ぞんざいな言い方を大仰にする傾向がある。若い彼らの話ぶりもそうであった。我々もそれに同調し、なにこれ!?すげえ!チョーかっけー!」的な言い方も彼らに聞こえるように、我々はしてみた。自分にとっては、言葉遊びの感覚だ。

心得のないその日本人カップルは途端に静かになった。


ハリウッド・スタジオ

二日目は、ハリウッド・スタジオと呼ばれる場所に出向いた。ホテルからバスに乗って十分程度するとそこに到着する。自動車によるド派手なスタントショーを見ることができた。別の日に乗るべくすでにファーストパスを用意していたタワー・オブ・テラー(恐怖のタワー)ではあったが、スタンドバイでも15分程度の少ない待ち時間で乗れるらしかったので、入場し、声を嗄らしてきた。エクストリーム・スタント・ショー(白熱スタントショー)では、複数の自動車とバイクの追跡ショーが行われ、商店街やトラック、出店のセットを使っての銃撃戦に発展した末、建物三階から悪役が撃たれ、て地面に落ちるシーンや、水上での逃走があった。間をはさんで、こうした撮影用の自動車の仕組みを種明かししたり、最後のほうでは、実際に放映される映像を見せたりするのである。

インディアナ・ジョーンズ・エピック・スタント・スぺクタキュラーも、インディージョーンズという映画の一シーンを撮影する、という状況設定で派手な撮影再現を見せるのである。

そのほかには3D映画などを見た。日没ごろには、ファンタズミックという非常に混みあうショーを見に行き、東京の有名花火大会を見終わった後のような混乱の中、滞在していたホテルに帰ったのであった。



アニマル・キングダム

三日目は、アニマル・キングダムと呼ばれる場所に出向いた。例によってホテルからバスに乗っていくのである。朝の早い時間帯に出かけるために通常よりも早起きをして出かけるのである。晴れていて、Tシャツ姿で歩くのにちょうどよい気候であった。乗り物に乗って、車体を大きく不規則に揺らしながら、凸凹の道を進みながら動物を見ていった。たった三日間ではあるが見回っていて、気づくことは、パークのそれぞれが異なるテーマを持っているらしいことと、飽くなき創意工夫と楽しさの追求であった。

ホテルへのバスに乗り込む際には、三人とも疲れが溜まっていた。と、そこへ日本人家族四人が乗り込んできた。母親が乳母車を畳まないままバスに乗り込んできた。日本では乳母車を畳まないことが多い。とはいえ、ここは日本ではない。運転手が、折り畳むよう告げた。しかし日本人の両親はヘラヘラした笑いを浮かべながら、何も言わずに無視して車内に入った。英語が分からなかったに違いない。その割に親の声が素っ頓狂に大きくて、場違いだった。車内は混んできたが、乳母車は広げたままだった。近くに座っていた男性が、畳んだほうがいい、と助言したが、無視されてしまった。その両親は頭から突き抜けたような声で、カリフォルニアのディズニーのこともたくさん語りあっていた。

日本では、電車内であれ、レストランであれ、海外の話を得意がってしている場面に毎日遭遇していたことを思い出した。「海外」に行ったことがステータスシンボルであるとともに、異文化の者による異文化の考えに対しては「郷に入っては郷に従え」という言葉で切り捨て、完結してしまう傾向のあることも自分は思い出した。

太宰治の『富嶽百景』では、富士山のふもとの河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて、宿泊先であった峠の茶屋に引返す途中のことが書かれてあるのも自分は思い出していた。

車窓から外を見やったとき、路傍に咲いていた月見草が太宰の注意をひく場面である。
「富士には、月見草がよく似合ふ。」

77年前に書かれたこの私小説を思い起こし、状況を重ね合わせては、自分も私小説風の雑記を書こうかとここフロリダ州のバスの中で思いあぐねていたのであった。




マジック・キングダム

四日目は、マジック・キングダムという場所に出向いた。朝方、Tシャツ姿ではやや肌寒かったが、正午に近づくにつれ、暑くなった。ザ・ホール・オブ・プレジデンツ(歴代大統領ホール)に立ち寄った。歴代大統領にまつわる展示物を見て回りながら、ショーの会場を待った。アメリカ人だけが集まるのか、と思いきや、中国語を話す集団が結構いる。インドなまりの英語も聞こえてくる。アメリカ人の客層としては、小学生らしき子供、ヤングアダルト、成人者、年配者らといった具合に、年齢層は様々。アメリカの歴史を、映像と舞台を使い、歴代の大統領と絡めながら紹介するのである。人形が良くできていて、演出もすばらしく、思いのほか感銘深かった。何より、「楽しめる」といったところがディズニーの凄さだ。ディズニーに興味のニア自分も、「楽しさ」と「技術」を追及した姿には感銘を受ける。ディズニーで聞かれるImagineeringという造語が意味深く響いてくる。


パイレーツ・オブ・カリビアンスプラッシュ・マウンテンに入場するまでの道すがらや、乗車の際には日本人が見返られる。人の集まる場所では、中国語や日本語やインドなまりの英語を話す者らの整列の仕方や通り抜けの仕方に時々ヒヤリとさせられる。人口密度の比較的高いアジアの生活様式なのだな、と思った。良し悪しの問題ではなしに。

スター・ツアーズは、娘の体調不良のため断念した。長時間浴び続けてきた直射日光と疲れと食べ過ぎのためらしかった。


再度アニマル・キングダムへ

五日目は、アニマル・キングダムに再度出向いた。ワイルド・アフリカ・トレックというプログラムに参加した。会場の少し前に、園内に入り、ベストを着こんだ。我々を含めた三組が共に行動するのである。吊り橋をビクビクしながら渡ったことと、動物を見ていたこと、山道を歩いたこと、食事をしたことを自分は覚えている。また、顔に模様を塗ってもらった。気分を良くして、いくつも自分の顔写真を撮った。お気に入りの化粧姿とは、こういう風に自分の心に作用するものなのだろうか、と思った。





再度ハリウッド・スタジオへ

六日目は、ハリウッド・スタジオに再度出向いた。
ビューティ・アンド・ビースト(美女と野獣)のショーを見ながら感じ入るものがあったので、ステージの様子を写真に収め、忘備録としてFacebookにこう打ち込んでおいた。"Amazing thing about Disney shows is every action they take is so perfect and beautiful. Their singing is great and impressive with full of power and energy."


スタジオ・バックロット・ツアーというプログラムは、面白い。列車のようなものに乗って、映画シーンや作製現場を見て回れるもので、ついでに四日前に見たエクストリーム・スタント・ショー(白熱スタントショー)の裏側の様子も見れるのであった。ちょうどスタントショーの途中で、車が轟音を立てて、セットの裏側に来たり、観客の前に走って行ったりしていた。

その後、店で"The Imagineering Workout"という本を買った。Disney Imagineerたちが日々の創意工夫に関する覚書、アドバイスを書き記し、まとめたものである。ところで、Imagineeringとは、トヨタで使う「号口展開」、ホンダの「白シャツ」のような、いわばディズニー起源の独自用語で、Imagine (imagineation)とEngineeringが合わさった、いかにもディズニーらしい言葉だ。Engineeringは自分も他人も楽しくて、ワクワクするものでありたい。不可能と思われるような夢や空想を形にしようと努力することがエンジニアリングである、というところに喜びと希望を見出した。しかもそれは建前だけのスローガンではないとも思えたのだった。




そこでふと思ったのは、1942年生まれ父親が高校時代に使っていた機械科の教科書である。自分の父親は日本の田舎町の高校に通った。以前、自分はその教科書を父からもらい受け、現在は自分の本棚に置いてある。

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現代の世界は平和的競争時代であって、国の水準を他国より優秀な地位におかなければ国の繁栄を握ることが困難である。繁栄がなされなければ国民の富もなし、安心もない。日本

は小さな島国であり、天然の資源が悲しいほど不足である。石油もなければ鉄鋼も貧弱である。
こういう国柄である以上何によって国を富ますかを考えれば、手近な手段として工業国立国以外に歩む道が見当たらない。水産国としては世界の注視をあびているが、水産関係は徐々

に苦しくなる立場におかれつつある。工業はだれにもじゃまはされない。工業立国以外に何があろうか。
日本の工業はしからば世界水準に達しているかどうか。世界水準に達していると思われる製品は微々たるものである。考えなければならない点は多く、また道もまた遠しの感がある。

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その時代がどんなふうであったかが目に浮かぶような文面である。

機械化を実現させ、それによって生活が向上するのだというあたりが、まことに昭和の論調で、それはそれでなかなかに美しく、尊い。人々が懸命な姿で仕事に没頭するさまが目に浮かぶ。成果も上がり、実際多くの日本人の生活は向上したわけだ。

そして、今は21世紀。物質は満ち足りるようになった。食べ物や文房具品は、容易に手に入り、それほど大切に扱うこともない。電化製品は豊富であり、それらに囲まれて暮らしていることを特に意識することもない。

にもかかわらず、人々は「生きにくい」「生きるのがつらい」「夢も希望もない」という論調が日本のメディアの至るこころで目にするようになって久しい。停滞感、頭打ち感に満ちているのが、日本に住んで、通勤電車に乗って仕事に行っていた自分が見た普通の日本の風景であった。

エンジニアリングは、あの昔の教科書のまえがきのような、戦後復興といったものではなくなった。その日を生きるためのパンを得るのを唯一の目的にするのではなく、うれしさ、楽しさ、人との繋
がり、心の充実を通じた幸福感を追及するのも、大きな目的に組み入れる必要が出てきているように感じられる。




フロリダ最終日
七日目は最終日であった。場内を回っていた自分はいろいろの言語を耳にした。英語以外では、スペイン語、ポルトガル語、中国語、韓国語、日本語、フランス語が自分の耳に入ってきた。たったそれだけのことかもしれないが、趣味で外国語を学びたい気持ちになった。

空港に向かうバスを三人で待っていたところ、三日目に遭遇したあの素っ頓狂な声の日本人夫婦が、昆虫のように目をきょろきょろさせながら、自分らの後ろに来て、バスを待つ列に並んだ。

一分経ったかどうかという時に、その二人の子供がおしっこに行きたいと言った。「ええ!?ちょっとぉ!さっき、トイレ行きなって言ったじゃん!」と母親が非常事態のような声を上げた。「もぉ、何なのよ、ここまで来て!」
「すみませぇーん。荷物見ててもらっていいですかぁ?」と自分に語り掛けてきた。
「はい、いいですよ。」と私は言った。
「すぐ戻ってきます。」こう言って、夫婦は子供の手を引いて会場入り口のほうに足早に向かっていった。
人が集まった場所を分けて入って行っている様子を自分は遠くから見た。「すみません」も言えずに、とにかく小さい自分らの体を猫背のように曲げ、押し入っていき、怪訝そうに振り返られていた。

「やっぱり、日本でやってるようにしかできないんだよねぇ。日本に帰ったら、『自分はアメリカのことを何でも知っています』的な感じでエラそうにしてるんだろうねぇ。」と家人は言った。
「そういうものだって。そういう文化なんだから、文句を言ってもしょうがない。」と自分は言った。「アメリカ人にも、とんでもない非礼な人間っているしね。田舎だと、アジア人なぞ自分の視界にも入ってこないで、普通に無視する人とか、いたよな。そういや昔、バスで、『おいジャップ、今何時だ?』って時間を聞いてきたのもあったな。十年ぐらい前だったかな。」

今回、映画『パールハーバー』の撮影シーンを見に行ったのだった。純粋にアクションシーを楽しむものであり、実際とても面白かった。と同時に、自分の娘が数か月前に国語(英語)の授業で学んでいた日系2世アメリカ人の強制収容のことも、心のどこかに留めており、あとで家族三人で話をした。おそらくほとんどの日本人は、2世の歴史は知らない。そこまで知る必要がないのかもしれない。現に自分の両親も戦争を知らない。父親は赤ちゃんであったし、母親はまだ生まれていない。

自分の生家が、軍需工場とされていたことは写真を通じて確認できたが、それほど話を聞いたわけではない。暮らしが大変だったのは聞いている。私の父を腕に抱いたまま避難した祖母は、赤ちゃんだった父があまりに泣くので、敵国のパイロットに見つかる、と周囲に叱られ、その場を追い出されかけていた、と何度か語った。

空港行きのバスが来た。自分は彼らの荷物はそのままに、バスに乗り込んだ。飛行機に乗り遅れるわけにはいかない。それにしても、なぜ彼らは荷物だけを置いて、子供をトイレに連れていくのだろう?

バスの運転手は「あの荷物は持ってこなくていいのか」と問うた。自分は、あれは自分らのものではない、とだけ言って、中に入って行った。

帰宅
ミシガンの空港に到着した。雪の積雪は、まばらであった。寒さも、予想していたほどではなく、ずいぶん和らいでいるように思った。道は狭くて、ごみごみしているような気がした。自宅に到着すると、荷物を置き、少し休憩した。それから猫を迎えに行くため、ペットホテルに向かった。我々の猫はガラスに向こうでご飯を食べていた。

我々三人が近づいて、
「モモちゃん、モモちゃん」
声をかけた。

今年二歳になったモモちゃんが振り向いた。
我々の姿を見るや否や、顔ハッとさせ、目を大きく広げた。

モモちゃんは家についてから、我々三人におもちゃにされまくった。
旅行中、我々は「モモちゃんはどうしているだろう」とずっと言っていたのだった。ネコ科の動物を見るとモモちゃんのことを言った。
招き猫の置物やアクセサリーを見て、「モモちゃん!」と言ったりもした。

家に帰ってきたモモちゃんは、三人にとっかえひっかえに遊ばれて、それからたくさん眠った。体がやや大きくなったように見えた。

(二〇一三年十二月三十日)

Nov 28, 2013

[Thanksgiving 2013]


暑い暑いと思っていたのに、時々風が涼しくなったりし、もう夏は終わりだろうかと家人に言ってみたりしていたうちに木の葉の色が変わり始めて、実に美しい紅葉の景色となった。暑い時期には夜の9時半でも空は明るく、残業を終えて帰宅しても家族をドライブに連れていくことができるほど時間がたくさんあったような気がしていたが、秋にもなると日が短くなり、今では午後5時ごろには暗くなってしまう。雪の降る日が出てくるようになった。今年の初めに日本から三か月ほど出張で来られていた方が私に挨拶のメールをくれたので、ここミシガンは日中でももう摂氏で一桁気温になりましたなどと綴っていたのは先月のことであったはずだったが、今では日中でも摂氏でマイナスの気温にまでなってとにかく寒い。今年は去年より寒くなるタイミングが早いような気がする。そういえば夏も短かく、職場の誰かが今年は冷夏であったと言っていたのを思い出す。Thanksgiving休暇の前日は、朝から休みモードであるような雰囲気であった。休みを取っている人もいれば、午後2時ごろを回ったあたりで帰路につく人らが出てき、3時になるとお前は帰らないのかと私に言う人も出てきたと思っていたら、同僚の一人はいいから帰れ帰れ、あと10分で帰るとか戯言(ざれごと)は言わず帰ることだ、明日はThanksgivingだと私をけしかける。まだ明るい時間帯に帰宅の途に就いたのであったが、道路はどこもかしこも混んでいた。図書館によって本とCDを借りて帰宅し、家族を連れて数件の食料品屋に出かけた。店はいつもより混んでいた。落ち着いてCATIAに関する一般的な情報整理と勉強をしようかなと思ったりした。ネットでもForumという形で情報交換は行われていることでもある。そういえば自分がCATIAの仕事を始める前、日本語のサイトに数度立ち寄って情報収集してみたことがあって、面白いことに、そこで活発に投稿されていた方と日本の埼玉県のR&Dに隣同士で三か月間だけだったけれども、仕事したことがあった。そこで三か月だけお世話になって、自分はミシガンに引っ越したのだった。ともあれ、その日本の職場で隣に座っていた、活発に投稿されていた方から自分は、CATIAの仕事を開始する少し前のことだったけれど、ネット上で頭からけなされたのは強烈に覚えており、しかし実際に会ってみると、PC上で見られるような攻撃的な口調の人でもなく、立場的にも影響力のある方でもなかった。逆にキャリアの少ない自分のほうが知っている部分が結構あって、私は経験もさほど多くなく、物分りも人と比べてそれほど良くないのをいつも気にかけていただけに、経験年数の多いこの方の実際の姿を見て、正直ずいぶん安心したのを思い出す。とはいえこの日本語サイトのほうはあまり自分向きではなかったので、自分は英語Forumに傾くようになった。英語版に投稿していた一人と偶然今同じ職場で仕事をしているというのも不思議な話だ。



ネットのForum一つとっても、日本語と英語ではコミュニケーションの仕方、基本姿勢が異なる。日本人は基本的処理能力は比較的高い場合が多いが、始めから頭ごなしでコミュニケーションが殺伐してしまうか、成立しない場合が普通に見かけられる。興味深いのは、北米では普通に質問し普通に処理されるやりとりが、日本の場合だと相手を容易に怒らせてしまう場合がしばしばある。頭を下げる側と威張る側に区分されるか、同等であれば問題をはっきりさせず適当に済ましていくか、という傾向があり、コミュニケーションそのものよりは態度や言葉遣いに重点が置かれる。質問や意見の行ったり来たりをするディベートをするといった土壌がない。確かに日本の電車でもどこでも、公共の場所に行くと人々は「ここに座ってもいいですか」「横に詰めてもらえますか?どうもありがとうございます」といった一声かけるというものがない。声を発するときはキレた時、という風習なので言葉のやり取りは感情的な波風を起こしがちであり、それに反して、普段から海外、グローバル、英会話という言葉を非常によく言い回ることで隠れ蓑のような目くらましのような効果を生むことに一役買っており、これを一面的に見たら良くなさそうにみえるけれど、決して悪いことばかりではない、と私は思う。そのような気質こそが製品、商品といった物質に対する高品質に結びついているのだし、そこに口をはさむ余地はない、私は思う。変な書き方をしているとは思うけれど、それも自分が永い間にわたってそういったことについて意識的なだけで、個人的な趣向で片付く話ではある。ところで、アメリカと日本を比べるときに思い起こされるのは太平洋戦争の際の作戦等にかんする書物で、非常に勉強になる。戦争とか世界大戦とか、銃を持ち、人を殺し、血を流す破壊行為が、一般的なビジネスを連想させるあたり、変な話であるような、そうでもないような気分になりながら、こうしてThanksgivingの朝を迎え、家人たちがねむっている間にここでつれづれなるままに書き綴ってみたのであった。

 

Jul 7, 2013

[Independence Day & Fireflies] 独立記念日の蛍

2013年の独立記念日はミシガン州で迎えることとなった。気候は良い。昔いたネバダ州のように焼けつけるような暑さもなければ、日本のような息が止まると思われるような蒸し暑さもない。暑いには暑いが、車の窓を開けて、時速40か50マイルで運転していれば、いい風が車内に入ってきて、心地いい。

I spent Independence Day 2013 here in Michigan. I like the climate here. It is neither a broiling summer like in Nevada, nor a humid and hot summer in Japan where you feel you can’t breathe. It is hot, but if you drive on 40 or 50 miles per hour and keep the windows open, you will have good air coming inside the vehicle. 

図書館で本を数冊とCD、DVDを数個借りた。その中に日本語の本が一冊。村上龍『桜の樹の下には瓦礫が埋まっている』というタイトルであった。日本の世相について書いたエッセイ集である。今エッセイというと、結局は日本の閉そく感、無気力感、無力感について書いたものが非常に人気(?)だが、これもそのうちの一つ。新しい発見はなかったが、楽しめた。

I borrowed a couple of books, CDs, and DVDs at the library. One of the books was a Japanese book “Debris Is Buried Under The Cherry Blossom Tree“ written by Ryu Mutrakami. It is a collection of his essays. Nowadays, when you hear about essays written by a Japanese individual, many are on the stagnated sentiments, indifference, or helplessness prevailing in this country, and (as I imagined) this book also covers those popular (?) topics. I enjoyed reading that, although it was nothing new to me.



この本を読んで思い浮かんだのは、何カ月も前に読んだミスコンテストに関するYahooニュース記事であった。日本代表が入賞したというもので、無数に書き込まれたコメント欄を見ると「おめでとう」といった、褒める反応が見られなかったのが、いつもながら印象に残っていたのだった。なぜか、入賞者に対して批判的、失礼、心ないコメントが非常に多い。US Yahooでミスコンテストの入賞者発表の記事があると、あまり美人でなくても「おめでとう!」といった称賛の声が多い。こういった傾向はネットのみならず日常生活にも顕著で、この辺は文化の違いだな、と思ってきている。どちらが良いとか、悪いとかいう問題ではない。

That book reminded me of one Yahoo Japan news article on a Beauty Contest, where one Japanese female won the competition. Under the article were so many comments, but what impressed me most (this is often the case, though) was there was almost no one who congratulated her on what she had made. Many were fault-finding, rude, or hurting comments. On the other hand, when looking at a US Yahoo news article on a beauty contest, many of the posts will congratulate the winner (unless she is an infamous individual). This phenomenon can be observed quite commonly in their everyday life. I used to say to myself: “It is a cultural difference.” This is not a question of good or bad.

独立記念日の夜は打ち上げ花火がそっちこっちで聞こえた。家族と私は外にいたが、水辺でもないのに、芝生には複数の蛍がいて、我々の心をとても楽しませた。

I heard fireworks here and there outside the house at the night of the Independence Day. My family and I went outside, where we saw fireflies on the lawn. We enjoyed seeing them very much.


 じゃんけんで 負けて蛍に 生まれたの
という「生まれ変わり」の思想を元に詠まれた俳句を私は思い出した。
英語にすると2通りに訳される。

英訳① 
   are you a firefly
    because of losing at rock-paper-scissors?

英訳② 
   i am a firefly
    because of losing at rock-paper-scissors

That instantly reminded me of this Haiku poem I had once read before.
   Jankende/ Makete Hotaruni/ Umaretano
This Haiku was composed based on the belief of reincarnation, which can be translated (interpreted) into 2 ways as the following.


English Translation 1.
   are you a firefly
    because of losing at rock-paper-scissors?

English Translation 2.
  i am a firefly
   because of losing at rock-paper-scissors



虫からこういう感傷性を導かれるのは、日本的、アジア的だと思うし、日本人自身も誇りにしていると思う。ただ、ここで終わりにはせず、他の文化にもそういうものがある、という方向にも行くべきだと思う。たとえば、アメリカにはアメリカの感傷性、美しい心の現われもあり、それは日本人からは見いだせないものであったりする。アメリカのみならず、インドにもロシアにもメキシコにも、日本人の知らない独特の感傷性があるだろう。

This sentimentality inspired by a bug seems typically Japanese or Asian, and I know this is what Japanese themselves often want to mention when explaining about who they are. But they also should apply this careful inspection to other cultures. In America, for example, there is an American sentimentality or inner beauty, which is non-existent and out of their behavior patterns in Japan. The same should be true with Indian, Russian, or Mexican culture.

ことさら私がこんなことを言うのは、昨今、この村上龍のエッセイ集のように、一つには、日本の閉塞性、希望のなさ、自らを変化させようとしない無気力さを語る場合と、二つ目には、日本は他に類をみない特別な感性を持った、あらゆる国の中でも特異な国だという論調になる場合のどちらかでしかなく、とくに後者についてであるが、それに接するにつけ私は何か煮え切らないような思いに陥り、変に居心地の悪い気分を味わうためである。

I am saying this kind of thing because when I read or hear about their status quo in the Japanese language, including this Mr. Murakami's book, everythings seems to be grouped into either of the 2 statements. (1) Japan has been in stagnation and hopelessness, and do not even have a passion to change themselves. (2) Admitting that every country is unique of itself, Japan is the most unique country among all the rest.
Every time I hear these things, especially the latter statement, I begin to have a strange feeling and it keeps remaining in my head to make me feel uneasy.

おいしいお菓子の種類やアニメの数は多数だが、価値観に関していえば日本は選択の幅がとても狭い。これも文化的背景によるものなので、良い悪いではない。良く作用するとなると、これは大変な効果を上げる。ただ、最近はITやらグローバルとやらのせいで不利な部分が出てきやすいだけのこと。昭和時代の日本のような「一億総中流」という傾向は無いに違いない。グローバルな教育・知識・経験を身につけた者とそうでない者(海外かぶれを含め)とが二分されることにはなるとは思う。そうした条件下で、「希望はある」と思っている。2013年現在、日本のみならずアジアのポテンシャルは、まだまだ発揮され尽くしていない気がする。

There are so many delicious snacks and animes in Japan, but it seems there are very few possibilities. Of course, this is something based on the cultural background and it is neither good nor bad. This tendency can work out so great when in a favorable situation. However, this IT or globalization trend seems to have made them a little disadvantageous. In the Showa era, when Japan was setting out for prosperity after the World War II, there was this “all-Japanese-are-middle-class” mentality. This mentality will no longer be existent because I think there will be two distinct classes among them, i.e., those who have been educated, experienced or obtained global perspective and those who haven’t obtained it (including 'appear-to-be internationalized' individuals). Under that circumstance, I am anticipated toward the future of Japan. As of 2013, I feel there are more to be done for Japanese individuals or organizations as well as other Asians. - Asians including Japanese should still be potential resources.

Apr 27, 2013

森鷗外『渋江抽齋』 (部分的に試訳)

The picture above is copied from Wikepedia. (https://en.wikipedia.org/wiki/Mori_%C5%8Cgai)

The original can be read at Aozora Bunko (青空文庫). - The copywrite has already been expired.
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2058_19628.html

The reason I wanted to translate this piece (only a very small portion of it) into English is because:
1. Nobody didn't seem to have translated this work into English. (The words used in this book are a bit too old-fashioned.)
2. I thought it was a very impressive work written with accurate and concise expressions in the Japanese language. (I didn't think this book was interesting at all when I was younger, but it suddenly appeared so different around the time when I turned the age 40.)
3. I thought this work should long survive in the history of literature, as a reference documentation, since it should help understand how the intellectual people in the pre-modernized period in Japan used to think and behave.
4. This work brilliantly depicts the Japanese individuals' cultural mindset based on the traditional "family institution", which I thought should be a different perspective from the west.

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[Now here's what I have translated selectively from the book.]

Chuusai was a person of very little self-indulgence. He hadn’t drunk alcohol at all, until he was transferred to a cold northern area for a one year duty to serve the former feudal lord, Nobuyuki when he acquired a habit of drinking. He didn’t smoke all his life. He didn’t hike, except he occasionally had a little trip to a mountain to take herbs. He liked visiting a theater often, but he made it a rule to watch it at the parquet circle with friends. He called these friends “Shuumo Shukuren,” meaning “I love the cheap.”

What was Chuusai’s expense consisted of? Perhaps there was nothing other than purchasing books and inviting guests. The Shibue was a family of doctors for generations. There were quite a few, among the books he owned, that had been handed over from his forefathers. But, as I look upon the books list in “Keiseki Hoshi,” I can imagine he didn’t hesitate to spend his money on books.

The first year of Kouka, three years after he composed this poem, he was appointed to an instructor at Seijukan. This Seijukan was a medical school founded in the second year of Meiwa by Gyokuchi Taki, which was located at the memorial site of Tenmondai in Sakuma Town. Three years later the owner eventually was transferred to the Shogun government. By the time when Chuusai was ordained to this position, Gyokuchi, his son Rankei, his grandson Keizan, and his great-grand son Ryuuhan had already passed away. His great-great-grand son Gyoko had succeeded the direction. Chuusai had been closely acquainted with Keizan’s second oldest son, Saitei, who had become independent of his original home in order work for this school.

It was a coincidence that I got to know of Chuusai. I resigned a medical school as a doctor to become a bureaucrat. I made it to be listed as a writer. Ever since I was young I loved to keep the journals. I wanted to know the facts and situations of the past during the Tokugawa Era. I wanted to obtain the source of writings. It occurred to me that I needed to study “Bukan”.
Whenever I meet with a friend, especially from the Tohoku region, I asked if he knew anything about “Shubuye” or “Chuusai.” I also sent a letter to a friend in Hirosaki city and asked about Chuusai Shibuye.

One day I met with Kinpuu Nagai to ask about Shibuye. He said, “If you are talking about Shibuye in Hirosaki, he is a book collector, as well as the author of ‘Keiseki Hoshi.’” Nagai-san, however, didn’t know if Shibuye used “Chuusai” as his first name. The name “Chuusai” does not appear in “Keiseki Hoshi.” 

It was at this time when I heard the name Dojun the first time from Iida-san. This name was noted in the introduction of “Keiseki Hoshi.” However, Iida-san did not know if Dojun had used “Chuusai” for his pseudo name.

Even though I had met with someone who knew Dojun, I was unable to obtain information on Dojun’s descendants. With an unfortunate feeling I was going to take a leave, when Iida-san said to me, “Wait a minute. Let me ask my wife just in case.”
His wife entered the room. To the question if she knew anything about Dojun Shibue’s descendents she replied, “I know Dojun’s daughter. Katsuhisa Kineya is her name and she lives in Honjo Matsui-cho.”

I learned for the first time that the author of “Keiseki Hoshi,” Dojun Shibue had a child. Judging from her last name “Kineya”, she should be a teacher of Nagauta (long epic song).
A couple of days later I received a letter from Iida-san. He wrote Kineya-san had a nephew called Shuukichi Shibuye, who lives in Shimo Shibuya. This being said, this Kineya-san’s nephew should be Dojun’s grandson. Summing this up, Dojun had a daughter and grandson who are living now today.

I sent a letter to Shuukichi-san right away to ask him when and which place would be suitable to meet together if permitted. His reply came soon. He wrote he had been sick in bed but when he became better he could visit me. Judging from his handwriting he must be a young person.
Tonosaki-san’s answer was very straightforward. “Chuusai is a Dojun Shibuye’s pseudo name. He is the author of “Keiseki Hoshi.”
This all made sense to me.

Chuusai, Dojun Shibuye not only wrote “Keishi Shishu” or wrote inspected notes with much reading experience on medical books, but wrote essays based on what he had studied from his collections, such as “Kobukan” or an “Old Edo Map”.
Astonished by the series of coincidences, Tonosaki-san said to me, “I know who Chuusai’s child is.”
“Me, too. She is teaching a Nagauta, right?”
“No, that’s not who I know that person is. It’s a man called Tamotsu, who succeeded the heir of Chuusai.”
“I see. Tamotsu Shibuye is the one who is the heir to Chuusai. Where does he live now?”
“I’m not sure of where he lives now. It’s been a long while since I saw him last. But let me ask somebody who might know of that. There are some people from the same home town of his.”
I wanted to be clarified on the Chuusai’s footsteps with the help of Tonosaki-san. He mentioned a couple of things he had remembered. The Shibuyes’ ancestor had been hired by Nobumasa Tsugaru. Chuusai is a descendant from this person by some generations. He was born during the period of Bunka, and deceased during the Ansei period. In the Kaei period he had an audience with Iyeyoshi Tokugawa. The epitaph was chosen by one of his friends, Gyoson Kaiho. Tonosaki-san stated all this overview, and promised me to send excerpts on Chuusai from the books he had kept at hand. I confirmed Tonosaki-san would find where Tamotsu-san lived and prepare the excerpts before leaving the guest room of Shoryo Dormitory.

It was a cold day but was too early to install a fire stove. We sat face-to-face over the table with Tamotsu-san. We never got tired of talking about Chuusai.

The currently existing descendants from Chuusai are these siblings (Ktasuhisa-san and Tamotsu-san) and Shuukichi-san’s father (Osamu). They were born from the same mother, the fourth wife of Chuusai. She was from the Yamanouchis, and her name was Io.

Katsuhisa-san’s first name was “Kuga.” She was born in the fourth year of the Koka period, when Chuusai was 43 and Io 32. She will turn 72 in the fifth year of Taisho. Chuusai had moved to Honjo in the fourth year of Kaei. This explains Katsuhisa-san was in Kanda when she was born.
Osamu, the father of Shuukichi-san was born in Honjo in the first year of Ansei. Three years later, in the fourth year of Ansei Tamotsu-san was born. Chuusai was 53 and Io 42, while Katsuhisa-san was 11 and Osamu 4.

Chuusai passed away in the fifth year of Ansei at the 54. Tamotsu-san was only 2 years old at that time. It was fortunate of him to have heard about who Chuusai was from his mother, Io, who survived until the seventeenth year of Meiji when Tamotsu-san was 28.

The ancestry of the Shibuyes is traced back to the time when they were subordinates of the Ohtawara clan in the Shimotsuke region. The forefather counting six generations back from Chuusai was named Kozayemon Shinsho. He served the Ohtawara clan for two reigns during the time of Seikei and Seisou, and he died on July 2 in the first year of Shoutoku.

Shinshou’s legitimate son, Choukou inherited the house to serve Seisou Ohtawara and Sishou Ohtawara. His second oldest son, Shouchou became independent and served the Ohmura clan in the Bizen region. His third oldest, Shinsei served the Tsugaru clan in the Ohshu region, and his fourth, Shinkyou was a military scientist.

Tadashige was a talented, handsome, and capable man. In March of the seventh year of Anei, he was adopted by Saku Shibuye and was promised to be the successor. Nobuakira, two years older than him liked Tadashige so much. On February 18 in the fourth year of Tenmei, Todashige’s stepfather, Honkoh passed away at age 58. It was the same day when Nobuakira inherited the land. He had already been titled as local manager of the Tosa region. The lord was aged 23 and Tadashige 21.

There was a maid serving in the Tsugaru clan. Her name was Shuzuye. In later year she removed her hair to become a nun, and was called “Myouryouni”. This Myouryouni was said to have shared a funny episode when she had seen in the Tsugaru clan. She recalled when Tadashige had finished his meal and left, the maids would gather around there, stretching out their fingers into the plate Tadashige had used and ate the remaining. Myouryouni said she did that, too.

Tadashige, however, was a man of stoicism and didn’t seek women. He married his first wife, Tanaka on August 22 in the first year of Kansei, but she passed away without a child on April 13 of the next year. He then married his second wife, the daughter of Jousuke Kawasaki who had been fortuned seven ryo (ranked Nando-yaku) to take care of twelve subordinates, while having served the Masagoro Toda clan in the rank of Yoriai. They had a daughter, Itsu born in February of the fourth year but died when she was only three. The wife was divorced  by him in the following year. He married his last wife, Nui, who was a sister of Chuuji Iwata, a subordinate of Hotta Sakagami Sagami, who was the lord of the Sakura area in Shimousanokuni. This wife will be the mother of Chuusai. Tadashige was 32 years old and Nui 21.

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原典は青空文庫です。(よって著作権は切れています。)
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この作品を少し英訳してみたいと思ったのは次の理由によるものです。
1. この作品を英訳した人がいなさそうなため。(使っている言葉がやや古めかしい。)
2. 日本語によって正確かつ簡略な表現をとっている点が印象深いため。(私自身、若い時分この作品を全然面白いと思わなかったが、40歳あたりになってから突如考えが変わった。)
3. この作品が現代以前の日本の知識人の考えや行動をい知るうえで、また、参考文献としての価値の点からも、残されるべき作品だと思うため。
4. 西洋とは異なる伝統的「家制度」に基づく日本人のマインドセットをこの作品が素晴らしくよく描出していると思うため。


[下記の部分を自分で選んで英訳してみました。]

抽斎は自《みずか》ら奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に扈随《こずい》して弘前に往《い》って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。煙草《タバコ》は終生|喫《の》まなかった。遊山《ゆさん》などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば出入《でいり》したが、それも同好の人々と一しょに平土間《ひらどま》を買って行くことに極《き》めていた。この連中を周茂叔連《しゅうもしゅくれん》と称《とな》えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。

抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購《あがな》うと客《かく》を養うとの二つの外に出《い》でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の手沢《しゅたく》を存じている書籍が少《すくな》くなかっただろうが、現に『経籍訪古志《けいせきほうこし》』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために貲《し》を惜《おし》まなかったことは想い遣《や》られる。

抽斎はこの詩を作ってから三年の後《のち》、弘化《こうか》元年に躋寿館《せいじゅかん》の講師になった。躋寿館は明和《めいわ》二年に多紀玉池《たきぎょくち》が佐久間町《さくまちょう》の天文台|址《あと》に立てた医学校で、寛政《かんせい》三年に幕府の管轄《かんかつ》に移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子|藍渓《らんけい》、孫|桂山《けいざん》、曾孫|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1-86-57]《りゅうはん》が死に、玄孫|暁湖《ぎょうこ》の代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13]庭《さいてい》は、分家して館に勤めていたのである。

わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。然《しか》るに少《わか》い時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜《さぐ》った。そこに「武鑑《ぶかん》」を検する必要が生じた。
わたくしは友人、就中《なかんずく》東北地方から出た友人に逢《あ》うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣《や》って問い合せた。

或る日|長井金風《ながいきんぷう》さんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。
わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。

切角《せっかく》道純を識《し》っていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは暇乞《いとまごい》をしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとお待《まち》下さい、念のために妻《さい》にきいて見ますから」といった。
細君《さいくん》が席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所|松井町《まついちょう》の杵屋勝久《きねやかつひさ》さんでございます。」
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。

二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江|終吉《しゅうきち》という甥《おい》があって、下渋谷《しもしぶや》に住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。

わたくしは直《すぐ》に終吉さんに手紙を出して、何時《いつ》何処《どこ》へ往ったら逢《あ》われようかと問うた。返事は直に来た。今|風邪《ふうじゃ》で寝ているが、なおったらこっちから往っても好《い》いというのである。手跡《しゅせき》はまだ少《わか》い人らしい。

外崎《とのさき》さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
 わたくしは釈然とした。


抽斎渋江道純は経史子集《けいしししゅう》や医籍を渉猟して考証の書を著《あらわ》したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の迹《あと》を手記して置いたのである。
外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは織っています。」
「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」
「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、保《たもつ》という人です。」
「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の嗣子《しし》であったのですか。今保さんは何処《どこ》に住んでいますか。」
「さあ。大《だい》ぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上げましょう。」


わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を詳《つまびらか》にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽|信政《のぶまさ》に召し抱えられた。抽斎はその数世《すせい》の孫《そん》で、文化《ぶんか》中に生れ、安政《あんせい》中に歿《ぼっ》した。その徳川|家慶《いえよし》に謁したのは嘉永《かえい》中の事である。墓誌銘は友人|海保漁村《かいほぎょそん》が撰《えら》んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って手近《てぢか》にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出し-て贈ろうと約した。わたくしは保さんの所在《ありか》を捜すことと、この抜萃《ばっすい》を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。

気候は寒くても、まだ炉を焚《た》く季節に入《い》らぬので、火の気《け》のない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語って倦《う》むことを知らなかった。

今残っている勝久さんと保さんとの姉弟《あねおとうと》、それから終吉さんの父|脩《おさむ》、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内《やまのうち》氏|五百《いお》の生んだのである。勝久さんは名を陸《くが》という。抽斎が四十三、五百が三十二になった弘化《こうか》四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所《ほんじょ》へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。

終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。中《なか》三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になっていたのである。
抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。幸《さいわい》に母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳で恃《じ》を喪《うしな》ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考《せんこう》の平生《へいぜい》を聞くことを得たのである。
 渋江氏の祖先は下野《しもつけ》の大田原《おおたわら》家の臣であった。抽斎六世の祖を小左衛門《こざえもん》辰勝《しんしょう》という。大田原|政継《せいけい》、政増《せいそう》の二代に仕えて、正徳《しょうとく》元年七月二日に歿した。

辰勝の嫡子|重光《ちょうこう》は家を継いで、大田原政増、清勝《せいしょう》に仕え、二男|勝重《しょうちょう》は去って肥前《ひぜん》の大村《おおむら》家に仕え、三男|辰盛《しんせい》は奥州《おうしゅう》の津軽家に仕え、四男|勝郷《しょうきょう》は兵学者となった。

允成《ただしげ》は才子で美丈夫《びじょうふ》であった。安永七年三月|朔《さく》に十五歳で渋江氏に養われて、当時|儲君《ちょくん》であった、二つの年上の出羽守|信明《のぶあきら》に愛せられた。養父|本皓《ほんこう》の五十八歳で亡くなったのが、天明四年二月二十九日で、信明の襲封《しゅうほう》と同日である。信明はもう土佐守と称していた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。

当時津軽家に静江《しずえ》という女小姓《おんなごしょう》が勤めていた。それが年老いての後に剃髪して妙了尼《みょうりょうに》と号した。妙了尼が渋江家に寄寓《きぐう》していた頃、可笑《おか》しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中たちが争ってその茶碗《ちゃわん》の底の余瀝《よれき》を指に承《う》けて舐《ねぶ》るので、自分も舐ったというのである。

しかし允成は謹厳な人で、女色《じょしょく》などは顧みなかった。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日に娶《めと》ったが、これには子がなくて、翌年四月十三日に亡くなった。次に寛政三年六月四日に、寄合《よりあい》戸田政五郎《とだまさごろう》家来|納戸役《なんどやく》金七両十二人扶持|川崎丈助《かわさきじょうすけ》の女《むすめ》を迎えたが、これは四年二月に逸《いつ》という女《むすめ》を生んで、逸が三歳で夭折《ようせつ》した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納《い》れた室《しつ》は、下総国《しもうさのくに》佐倉《さくら》の城主|堀田《ほった》相模守《さがみのかみ》正順《まさより》の臣、岩田忠次《いわたちゅうじ》の妹|縫《ぬい》で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。