幽霊に関する証言について、周囲の反応はこのようであった。
ある者はヴォン・ウォアトの妄想にすぎないと言い、またある者は彼のことをしっかりした人間であると反論した。論理を基に仕事をする技術者であり、また地元のメソジスト教会の信者でもある彼が狂言を吐くとは考えにくい、というのである。
名だたる学者が複数あつまり、彼の頭の検査を行なったそうだ。
「気難しい傾向の性格を持つ」ということが分かったに過ぎなかった。
実在しないとされるものが見える人間には、そもそも気難しい人が多いものだ、という説明が付された形であった。
ヴァン・ウォアトの幽霊体験は世間の知られるところとなった。
地元ディクスボロの住民は、土葬されているマーサの遺体を検査すべきとの意思を表明。
果たして、検査は行われ、結果はこうであった。
「死因は薬物による中毒。何者かによって投与されたのではないかと考えられる」。
マーサの幽霊らしき人物がヴォン・ウォアトに語ったとされるフレイン湖およびメイン‐ミル通りの井戸も調査対象になったようであるが、異常は発見されなかった。
幽霊が複数回に渡って言及したジェームスに関してであるが、疑わしいとする決定的な証拠はなかった。
ただし、周囲の噂など、彼はこの土地にいづらくなったと文献には書いてある。
マーサに バルサムポプラを処方した薬の行商人は白い目で見られるようになった。(マーサの幽霊によれば医者がその薬を出したとされるが、文献を見るとどうやら薬品の売人が処方したらしいことが示唆されている。)
まもなくジェームスと薬品の売人は姿を消し、二度とこの土地に戻ることはなかった。
ジェームスの妻もそれと一緒に姿をくらませたかどうか、そこまで詳しいことは不明である。
ちなみに、ジェームスの所有地は、1852年に売りに出された。
マーサの息子ジョセフは21歳になって、母親マーサの家を相続した。
1850年の統計調査によれば、彼は1,000ドル相当の資産を保有する農家として記録されている。
後年におよんでも、近隣の住民たちはマーサの幽霊についていろいろ語った。
死んだ後にわざわざマーサが姿を現したのは、よほどジェームスと薬物売人を消散させてしまいたいと思ったに違いない、と噂されもした。
なにしろ、マーサの言い分では、彼が自分にひどい仕打ちをし、死に至らしめさえしたのである。
21世紀の現在ならこういった幽霊話を本気で信じることはないかもしれぬ。
ただ、19世紀の半ばであれば少々事情が異なる。
きっと住民たちは、聞いた話をかなり真に受けたことだろう、と私は想像する。
マーサの幽霊に関する話は、イプシランティ・センティネル誌(1846年1月14日号)およびアナーバーのトゥルー・デモクラット誌(1846年2月12日号)で取り上げられ、何年も語り継がれた。
ディクスボロがこれほど有名になったのは、後にも先にもこれのみである、と文献には書いてある。
さらに1849年になると、アイオワ州カウンシル・ブラッフの新聞社が発行したフロンティア・ガーディアンの創刊号で、マーサの幽霊が出現した話が語られる。
以後、ハロウィンの時期にもなると、アナーバー、イプシランティ、ウィットモア・レイク、デトロイトの新聞は、マーサの話が詳しく述べられることになったようだ。
マーサの住んでいた家は、不審火により1860年代から1870年代頃に消失したとされる。
少なくとも1858年にシュアート一家がディクスボロに引っ越してきた際には、まだ残っていた。
フリーマン・シュアート・シニアが、報道記者に向かって、マーサの家を指差し、ここがそうだと説明した事実があったとのことだ。
さて、あるブリキの行商人が、ディクスボロのメイン‐ミル通りの交差点近くの宿屋で夜を明かしたとのことである。彼が翌朝にはいなくなってしまったという出来事があった。
もっとも、所有物である馬は、昨夜からつないだままになっており、荷馬車の中身も荒らされた形跡はないのである。
噂では、このブリキの行商人は殺され、井戸に捨てられたのではないか、とされていた。
マーサが姉のアンから聞かされた恐ろしい秘密と何か関係があるのだろうか。
結局、遺体は見つからなかったものの、結局メイン‐ミル通り近くのその井戸は埋められ、別の新しい井戸が掘られた。
そこから約100年後の1960年代のことであるが、エメット・ギブという住民が報道記者に地元で語り継がれる幽霊伝説について語った。彼はチェリー・ヒル通り沿いに住んでおり、当時宿屋のあった場所は道路向かいであった。
彼が言うには、静かな寒い夜には今でも、行商のベルの鳴る音が聞こえてくるとのことだ。よくよく耳をすませば、聞こえるのだそうだ。
ディクスボロの幽霊伝説 (おわり)