Apr 29, 2015

ディクスボロの幽霊伝説(その3) The Dixboro Ghost (Part3)

 <<ディクスボロの幽霊伝説 (その2) の続き>>



幽霊に関する証言について、周囲の反応はこのようであった。

ある者はヴォン・ウォアトの妄想にすぎないと言い、またある者は彼のことをしっかりした人間であると反論した。論理を基に仕事をする技術者であり、また地元のメソジスト教会の信者でもある彼が狂言を吐くとは考えにくい、というのである。

名だたる学者が複数あつまり、彼の頭の検査を行なったそうだ。
「気難しい傾向の性格を持つ」ということが分かったに過ぎなかった。
実在しないとされるものが見える人間には、そもそも気難しい人が多いものだ、という説明が付された形であった。



ヴァン・ウォアトの幽霊体験は世間の知られるところとなった。
地元ディクスボロの住民は、土葬されているマーサの遺体を検査すべきとの意思を表明。
果たして、検査は行われ、結果はこうであった。
「死因は薬物による中毒。何者かによって投与されたのではないかと考えられる」。

マーサの幽霊らしき人物がヴォン・ウォアトに語ったとされるフレイン湖およびメイン‐ミル通りの井戸も調査対象になったようであるが、異常は発見されなかった。



幽霊が複数回に渡って言及したジェームスに関してであるが、疑わしいとする決定的な証拠はなかった。

ただし、周囲の噂など、彼はこの土地にいづらくなったと文献には書いてある。

マーサに バルサムポプラを処方した薬の行商人は白い目で見られるようになった。(マーサの幽霊によれば医者がその薬を出したとされるが、文献を見るとどうやら薬品の売人が処方したらしいことが示唆されている。)

まもなくジェームスと薬品の売人は姿を消し、二度とこの土地に戻ることはなかった。
ジェームスの妻もそれと一緒に姿をくらませたかどうか、そこまで詳しいことは不明である。
ちなみに、ジェームスの所有地は、1852年に売りに出された。



マーサの息子ジョセフは21歳になって、母親マーサの家を相続した。
1850年の統計調査によれば、彼は1,000ドル相当の資産を保有する農家として記録されている。

後年におよんでも、近隣の住民たちはマーサの幽霊についていろいろ語った。
死んだ後にわざわざマーサが姿を現したのは、よほどジェームスと薬物売人を消散させてしまいたいと思ったに違いない、と噂されもした。
なにしろ、マーサの言い分では、彼が自分にひどい仕打ちをし、死に至らしめさえしたのである。


21世紀の現在ならこういった幽霊話を本気で信じることはないかもしれぬ。
ただ、19世紀の半ばであれば少々事情が異なる。
きっと住民たちは、聞いた話をかなり真に受けたことだろう、と私は想像する。

 マーサの幽霊に関する話は、イプシランティ・センティネル誌(1846年1月14日号)およびアナーバーのトゥルー・デモクラット誌(1846年2月12日号)で取り上げられ、何年も語り継がれた。

ディクスボロがこれほど有名になったのは、後にも先にもこれのみである、と文献には書いてある。

さらに1849年になると、アイオワ州カウンシル・ブラッフの新聞社が発行したフロンティア・ガーディアンの創刊号で、マーサの幽霊が出現した話が語られる。

以後、ハロウィンの時期にもなると、アナーバー、イプシランティ、ウィットモア・レイク、デトロイトの新聞は、マーサの話が詳しく述べられることになったようだ。



マーサの住んでいた家は、不審火により1860年代から1870年代頃に消失したとされる。
少なくとも1858年にシュアート一家がディクスボロに引っ越してきた際には、まだ残っていた。
フリーマン・シュアート・シニアが、報道記者に向かって、マーサの家を指差し、ここがそうだと説明した事実があったとのことだ。

さて、あるブリキの行商人が、ディクスボロのメイン‐ミル通りの交差点近くの宿屋で夜を明かしたとのことである。彼が翌朝にはいなくなってしまったという出来事があった。
もっとも、所有物である馬は、昨夜からつないだままになっており、荷馬車の中身も荒らされた形跡はないのである。

噂では、このブリキの行商人は殺され、井戸に捨てられたのではないか、とされていた。
マーサが姉のアンから聞かされた恐ろしい秘密と何か関係があるのだろうか。

結局、遺体は見つからなかったものの、結局メイン‐ミル通り近くのその井戸は埋められ、別の新しい井戸が掘られた。

そこから約100年後の1960年代のことであるが、エメット・ギブという住民が報道記者に地元で語り継がれる幽霊伝説について語った。彼はチェリー・ヒル通り沿いに住んでおり、当時宿屋のあった場所は道路向かいであった。

彼が言うには、静かな寒い夜には今でも、行商のベルの鳴る音が聞こえてくるとのことだ。よくよく耳をすませば、聞こえるのだそうだ。
 
 ディクスボロの幽霊伝説 (おわり)


Apr 28, 2015

ディクスボロの幽霊伝説 (その2) The Dixboro Ghost (Part 2)

 <<ディクスボロの幽霊伝説 (その1) の続き>>


ヴォン・ウォアトによる証言。
(1845年12月8日、アナーバーにてウィリアム・ペリーに証言がされた、と文献には記されている。)
 

幽霊との対面(1回目)
9月27日土曜日でした。7時から8時の間にあったことですが、私は家の窓の前に立っていました。妻は近所のハモンド夫人のお宅に出かけており、息子二人は自宅の中庭におりました。私は家の前を通って表の庭を歩いておりましたが、窓を鏡にして髪の毛を整えていた際、光が窓に映るのを認めました。

私は窓に手を当てて、よく見ようとしましたら、キャンドルスティックを持った女性がいました。持っていた手は左手です。先には火が点っていました。女性は普通の体型をして、簡易なガウンを着、頭には白い布が巻いてありました。やや前かがみの態勢で、目は大きく、しかし沈んだ目つきでした。顔の血色は良くなく、唇からは歯が覗かれました。

女性は室内を歩き、寝室に入っていきました。自分も家に入って、寝室のドアを開けましたが、中は真っ暗でした。マッチでロウソクに火を灯しましたが、見渡してみても、もう何もありませんでした。何も聞こえすらしません。ただ、最初に私が寝室のドアを開けた際、部屋の中のタンスの引き出しが開いて、それから閉まるような音は聞こえました。

数日後、自分がこの目で見たものについて人に話をして、そこではじめて自分のいたそこの家にはマルホランド未亡人(マーサ)という人が住んでいて、亡くなったのだと知らされました。
幽霊との対面(2回目)
二度目に同じ女性の姿を見たのは、10月で、夜中の1時頃でした。私は起き上がり、裏の戸から出ることにしました。寝室のドアを開けると、外の部屋が明るいのを見ました。ロウソクは見えませんでしたが、同じ女性が立っているのが見えました。彼女は5フィートほど離れたところに立っていましたが、こう言うのです。『私に触らないで。どうか触らないで』。

私は少し後ずさりし、『ここに何のご用ですか』と尋ねました。すると彼女はこう言いました。『あの人が持っていったのよ。あの人が私から少しずつ奪っていって、最後に私を殺した!殺したのよ!あの人はもう全部持っていった!』私は彼女に尋ねました。『誰が持っていったんですか』。すると彼女は『ジェームス、ジェームス。そう、ジェームスが持っていた。でも、このままでは済まされないわよ。ジョセフ!ああ、ジョセフ!ジョセフには手を出さないで』。そしてすべて暗くなり、静かになりました。


幽霊との対面(3回目)
三度目にこの女性を見たのは同じ10月。夜中に目が覚めた時です。時刻については覚えておりません。寝室がまったく明るかったです。ロウソクは見えず、女性がそこに立っているのみです。『ジェームスには、もう私に手出しさせない。絶対させるもんですか!私は彼の手に届かないところにいるんだから。ジョセフを放して!私の息子に手を出さないで!なんであの子を放してくれないの?』。そしてすべて暗くなり、静かになりました。
幽霊との対面(4回目) 
四度目に彼女を見たのも10月です。夜11時ごろで、私は暖炉の前に座っておりました。家族は寝入っており、私は物を食べておりました。その時、急に玄関のドアが開きました。戸口にはあの女性が立っており、私の知人である男性に支えられていました。彼女は体をのけぞらせ、今にも死にそうなほど苦しんでいる様子でした。女性は何も語りませんでしたが、そばで支える男性が口を開き、こう言いました。『彼女はもう死にそうなんです。もう死ぬと思います』。そして玄関のドアは、静かに閉じていきました。


幽霊との対面(5回目) 
五度目に彼女を見たのも、また10月です。夜が明けて少したったころです。家を出て仕事に行く時でした。表の庭にあの女性が立っていました。そしてこう言いました。『ジョセフには書類をちゃんと持っていてほしい。でも、でもそうじゃ・・・。ここで彼女は口をつぐみました。それから彼女はこう言いました。『ジョセフ!ジョセフ!私の息子に何か起きるんじゃないか、それが怖い!』


幽霊との対面(6回目) 
六度目も10月です。夜中でした。寝室の中で立っていました。前見た時のように部屋は明るくなっていましたが、しかしロウソクは見えませんでした。私は寝ている妻の方を見ました。目を覚まされたら大変だと思いました。女性は手を上げ、言いました。『彼女は起きないわ』。女性は大変な苦痛を感じているようでした。 彼女は前かがみになりながら、片手でおなかを押さえ、もう片手で薬ビンを持っていました。私は『それ何ですか』と尋ねましたら、女性は、『バルサムポプラって医者は言ってたわ』と答え、それから消えていきました。

幽霊との対面(7回目)
七度目も10月です。部屋の中に小さいベンチを置いて、それの作業ををしておりました。夕方の時間帯はこのベンチの作業となっておりました。女性が姿を現し、私にこう言いました。『ジェームスに物を言ってやりたかった。でも、結局できなかった。結局言えなかった。』私は彼女に聞きました。『何が言いたかったんですか』。女性は言いました。『あの人にとんでもないことをされた』。私は『誰のことですか』と言いましたら、彼女が言います。『あの人が、私をこんなに苦しめた』。そして女性はこう何度も言いました。『あの人たちに私は殺された。』

私は彼女に近づいて行きましたが、彼女は離れ、あくまで同じ距離を保ったままでした。『何か飲まされでもして殺されたんですか』と私は彼女に聞きましたが、口に溜まった泡のせいか、彼女の滑舌は悪く、よく聞き取れませんでした。

女性は奥の戸から外に出ていこうとしました。自分が知っている二人の男性が立っていました。うつむき、落胆したような風情でした。鉛が溶けるみたいに、二人とも姿が徐々に無くなっていきました。2インチほどのサイズの青い炎が溶けたあとの物に燃え移り、泡立てていきました。女性の姿はもう見えませんでした。それからすべて暗くなりました。


幽霊との対面(8回目) 
 その次に女性を見たのは、裏庭にいた時です。午後5時ごろでした。彼女は私にこう言いました。『あなたからジェームスに「心から反省しろ」と伝えてもらいたい。心から反省したらいいんだけれど。そんなことはしないでしょうけど。反省なんかするような人間じゃない。ジョンは悪人』。こう言って、彼女は何かボソボソ言ったのでしたが、私には何を言っている分かりませんでした。

それから彼女は『フレイン湖はどこにあるかご存じ?』と私に尋ねました。次にある重要な話をし、こう言いました。『このことは誰にも言わないで』。
(ヴァン・ウォワートがのちに明かしたところによると、この重要な話には、かつて、メイン通りとミル通りの角(マーサが生前住んでいた家の近く)に備えてあった井戸のことが触れられていたという。)

私は女性に、『あなたを殺したというその二人の男性の名前を公開してもいいですか』と尋ねました。すると彼女はこう言いました。『時は来ます。その時は来ますから。でも、もう終わり!もう終わり!悪だくみは終わり!』

そして彼女は息子ジョセフのことをゴモゴモと言い始め、それからすべて暗くなってしまいました。


幽霊との対面(9回目) 
最後に彼女を見たのは、11月6日でした。時間帯は深夜で、私は寝室にいました。女性は白い衣服で身をまとっていました。まっすぐ立って、顔色は悪いのが分かりました。『誰もここにいてほしくないのよ。誰にもここにいてほしくない』。そして彼女は聞き取れない言葉を発し続けていました。時々ジョセフという言葉は端々に聞こえはしました。
最後に彼女は、こう言いました。『私は自分の秘密を言いたかったの。私の秘密はもう伝えたはず』。そして、すべてが暗くなりました。
(ヴォン・ウォワート一家は、この翌日、家を引き払った。)
記録によれば、この女性の言葉には、アイルランド訛りがあったという。また、同じことを繰り返して言う癖もあったということだ。「あの人たちに殺された」ということと、息子ジョセフの名前は頻繁に出てきたという。


ディクスボロの幽霊伝説 (その3) に続く≫

Apr 26, 2015

ディクスボロの幽霊伝説 (その1) The Dixboro Ghost (Part 1)

ディクスボロの幽霊伝説(その1)

[参考文献] OF DIXBORO: LEST WE FORGET (By Carol Willits Freeman)


ディクスボロという地域は現在ミシガン州アナーバー市に包括されている。ミシガン大学の学生で賑わうアナーバーの市街地からプリマス通りに沿って、郊外に車を20分ほども走らせれば、ここディクスボロにたどり着く。
プリマス通り@チェリー・ヒル通り

この出来事の始まりは、1835年にさかのぼるから、かれこれ180年前のことである。

日本の年表でいけば、時期は江戸時代。慶應義塾創始者の福沢諭吉が生まれた年である。

大塩平八郎の乱はこの2年後、さらにその3年後にはアヘン戦争が勃発することとなる。

日清戦争はこの約60年後の1894年に起き、第一次世界大戦の開始は約80年後の1914年である。

日本やその他の状況を簡単に言及したうえで、本題に入ろうと思う。ジェームス・マルホランドとジョン・マルホランドは兄弟だった。彼らはアイルランドからここディクスボロに移住してきた。記録によれば、ふたりとも働き者で、暮らし向きも悪くなかったようだ。兄ジェームスにはすでにアンという妻がいたが、弟のジョンはまだ独身だった。

1835年の夏のこと、アンの妹マーサが息子のジョセフを連れてカナダからディクスボロに滞在していた。マーサは当時未亡人で、いくらかの財産を持つ身であった。ディクスボロ滞在中、ジョンはマーサに魅了された。一定の交際を経て、ジョンはマーサに求婚する。マーサもジョンに夢中であった。ジョンを魅力的な若い男性だと感じていた、と文献にはある。

姉のアンは二人のことを知るとひどく取り乱し、結婚を思いとどまるよう妹を説得する。アンはこの頃、思い沈み、悩むところがあったとされている。ジョンとジェームスに関する恐ろしい秘密を知ってしまい、アンはそれに恐怖と不安を持っていたらしい。アンはその秘密を妹に伝え、ジョンとの結婚は思いとどまるよう説得した。

その恐るべき秘密が何であるかは、いまもって不明である。

ともあれ、姉に秘密を聞かされて、マーサは驚き恐怖する。ただちに婚約を破棄し、カナダに帰る支度を始めた。ジョンとジョセフは、マーサを引き留めようとした。しかし、マーサのカナダ帰郷の決心が変わらないと知るや、今度は脅しをかけ始めた。もしもジョンと結婚しないならば、生きてカナダに帰れないようにしてやる、とマーサに伝えたとのことだ。

かくして同年(1835年)、ジョンとマーサは結婚する。二人は現在のチェリー・ヒル通り(当時はヒル・ロードと呼ばれていた)に居を構えた。

ところで、現在この通りにはHumane Societyという動物保護施設がある。今年2015年に17歳になる私の娘が二年前から毎週末ここでボランティア活動をしている。我が家の愛ネコ「モモ」はここで引き取ったのである。
娘は毎週ここで動物の世話をしている
モモちゃん(4歳)
当時すでにあったディクスボロ商店(ディクスボロ・ジェネラルストア)は、開店したとされる19世紀当時の面影を残しつつ、今もなお雑貨を扱う商売をやっている。(ただし下の写真は1915年。)

娘の送り迎えのついでに時々我々はこの店に立ち寄るのだけれど、歩けばどこも床がギシギシとなる。周囲も古き良きアメリカの風情が多分に残った、のどかな地域である。教会の建物など、100年前の写真も残っており、歴史ある美しい地域である。

1915年撮影のディクスボロ商店
 2015年撮影のディクスボロ商店
 ここで話は1835年に戻る。新婚のマーサの姉アンがこの世を去った。夫であったジェームスは1938年に別の女性と再婚。その2年後の1940年にはマーサの夫であるジョン(ジェームスの弟)が世を去る。

ジョンとマーサの間に生まれた、当時まだ幼かった息子(おそらく二人いた子供のうち下の方)もジョンの死後すぐに息を引き取る。マーサは夫と幼い息子に先立たれたのちも、チェリー・ヒルの家に住み続けたとのことだ。

それから1年もたたないうちに、マーサは自分自身の体に変調を感じ始める。姉のアンが死に至ったのと同じ症状であった。それもあってか精神的にはひどい鬱状態であった。悪夢にも悩まされ、正常な日常生活が困難であったと伝えられている。自分の名前も書けないほど心に混乱と動騒があったのだそうだ。

マーサの夫ジョンの死後、彼の所有物は兄ジェームスの物となり、マーサはそれに手も触れられない状態になった、と当時の近隣の住民たちは噂した。不自然な死が続いたとして、周囲はジェームスのことを疑い始める。この頃マーサは腹部や胸部に痛みを訴えていた。その治療に関与していたのは、地元にいる薬の行商人であったが、疑惑の主ジェームスの友人でもあった。

1845年になってようやくマーサはアナーバーに住む医師から診察を受けることとなる。ミシガン大学で基礎及び臨床医学を専門としていたサミュエル・デントンという人物であった。マーサはジョセフとジョン兄弟が人には決して語らなかった恐ろしい秘密をこの医師に告げたとされる。彼女はヒステリックに「『あの人たち』が私を殺そうとしている!」と叫びすらした、と記録にはある。実際マーサはそれから間もなく死んだ。死亡するの前の晩、彼女は近所の知人宅で精神錯乱に陥った。義理の親せきが、そこに出向きマーサを引き取り、自宅まで連れ帰ったとのことだ。

マーサが死んだのは体調の悪化と精神錯乱によるものだというのが、近隣住民の表向きの認識であった。その裏で、どす黒い嫌がらせをしていたジェームスは許せない、という感情もくすぶっていた。

同年(1845年)924日、アイザック・ヴォン・ウォアトという大工がニューヨークのリビングストン郡からアナーバーに行く道すがらにあったのであるが、ここディクスボロで足止めを食らう。彼は妻と二人の幼い子供を共に引き連れていた。

1859216日付のアナーバー・ジャーナル紙によれば、ディクスボロ付近にまで来たあたりで彼らの馬車が壊れ、ヴォン・ウォアト一家は2年ほどここで滞在するを余儀なくされたとある。
馬車が壊れたとて、何もしないでいるわけにはいかない。建築中で放置されたままの家を見つけるや、ヴォン・ウォアトは自分から志願して、作業を完成させる仕事を自分にやらせてほしいと申し出る。なんとかその仕事にありつくことができた。

同時に、自分と家族の住み処を探す必要もあった。その際、地元に住む15歳のジョセフ少年の元に案内されたが、このジョセフは、数週間前に死んだマーサの長男(おそらくマーサには息子が二人いて、カナダで死別した最初の夫との間に生まれた息子)である。15歳のジョセフは母親と住んでいた家を彼らに貸すこととし、ヴォン・ウォアトと正式に契約を交わした。

ジョセフの母親マーサのことについて何一つ知らないヴォン・ウォアトであるが、眼前で何度となく幽霊の姿に遭遇するのは、一家がこの家に引っ越して三日後の夜のことであった。

1845128日、ヴォン・ウォアトがアナーバーの法務官に対して行なった公式の証言が残っている。

≪ディクスボロの幽霊伝説 (その2)に続く≫