Apr 26, 2015

ディクスボロの幽霊伝説 (その1) The Dixboro Ghost (Part 1)

ディクスボロの幽霊伝説(その1)

[参考文献] OF DIXBORO: LEST WE FORGET (By Carol Willits Freeman)


ディクスボロという地域は現在ミシガン州アナーバー市に包括されている。ミシガン大学の学生で賑わうアナーバーの市街地からプリマス通りに沿って、郊外に車を20分ほども走らせれば、ここディクスボロにたどり着く。
プリマス通り@チェリー・ヒル通り

この出来事の始まりは、1835年にさかのぼるから、かれこれ180年前のことである。

日本の年表でいけば、時期は江戸時代。慶應義塾創始者の福沢諭吉が生まれた年である。

大塩平八郎の乱はこの2年後、さらにその3年後にはアヘン戦争が勃発することとなる。

日清戦争はこの約60年後の1894年に起き、第一次世界大戦の開始は約80年後の1914年である。

日本やその他の状況を簡単に言及したうえで、本題に入ろうと思う。ジェームス・マルホランドとジョン・マルホランドは兄弟だった。彼らはアイルランドからここディクスボロに移住してきた。記録によれば、ふたりとも働き者で、暮らし向きも悪くなかったようだ。兄ジェームスにはすでにアンという妻がいたが、弟のジョンはまだ独身だった。

1835年の夏のこと、アンの妹マーサが息子のジョセフを連れてカナダからディクスボロに滞在していた。マーサは当時未亡人で、いくらかの財産を持つ身であった。ディクスボロ滞在中、ジョンはマーサに魅了された。一定の交際を経て、ジョンはマーサに求婚する。マーサもジョンに夢中であった。ジョンを魅力的な若い男性だと感じていた、と文献にはある。

姉のアンは二人のことを知るとひどく取り乱し、結婚を思いとどまるよう妹を説得する。アンはこの頃、思い沈み、悩むところがあったとされている。ジョンとジェームスに関する恐ろしい秘密を知ってしまい、アンはそれに恐怖と不安を持っていたらしい。アンはその秘密を妹に伝え、ジョンとの結婚は思いとどまるよう説得した。

その恐るべき秘密が何であるかは、いまもって不明である。

ともあれ、姉に秘密を聞かされて、マーサは驚き恐怖する。ただちに婚約を破棄し、カナダに帰る支度を始めた。ジョンとジョセフは、マーサを引き留めようとした。しかし、マーサのカナダ帰郷の決心が変わらないと知るや、今度は脅しをかけ始めた。もしもジョンと結婚しないならば、生きてカナダに帰れないようにしてやる、とマーサに伝えたとのことだ。

かくして同年(1835年)、ジョンとマーサは結婚する。二人は現在のチェリー・ヒル通り(当時はヒル・ロードと呼ばれていた)に居を構えた。

ところで、現在この通りにはHumane Societyという動物保護施設がある。今年2015年に17歳になる私の娘が二年前から毎週末ここでボランティア活動をしている。我が家の愛ネコ「モモ」はここで引き取ったのである。
娘は毎週ここで動物の世話をしている
モモちゃん(4歳)
当時すでにあったディクスボロ商店(ディクスボロ・ジェネラルストア)は、開店したとされる19世紀当時の面影を残しつつ、今もなお雑貨を扱う商売をやっている。(ただし下の写真は1915年。)

娘の送り迎えのついでに時々我々はこの店に立ち寄るのだけれど、歩けばどこも床がギシギシとなる。周囲も古き良きアメリカの風情が多分に残った、のどかな地域である。教会の建物など、100年前の写真も残っており、歴史ある美しい地域である。

1915年撮影のディクスボロ商店
 2015年撮影のディクスボロ商店
 ここで話は1835年に戻る。新婚のマーサの姉アンがこの世を去った。夫であったジェームスは1938年に別の女性と再婚。その2年後の1940年にはマーサの夫であるジョン(ジェームスの弟)が世を去る。

ジョンとマーサの間に生まれた、当時まだ幼かった息子(おそらく二人いた子供のうち下の方)もジョンの死後すぐに息を引き取る。マーサは夫と幼い息子に先立たれたのちも、チェリー・ヒルの家に住み続けたとのことだ。

それから1年もたたないうちに、マーサは自分自身の体に変調を感じ始める。姉のアンが死に至ったのと同じ症状であった。それもあってか精神的にはひどい鬱状態であった。悪夢にも悩まされ、正常な日常生活が困難であったと伝えられている。自分の名前も書けないほど心に混乱と動騒があったのだそうだ。

マーサの夫ジョンの死後、彼の所有物は兄ジェームスの物となり、マーサはそれに手も触れられない状態になった、と当時の近隣の住民たちは噂した。不自然な死が続いたとして、周囲はジェームスのことを疑い始める。この頃マーサは腹部や胸部に痛みを訴えていた。その治療に関与していたのは、地元にいる薬の行商人であったが、疑惑の主ジェームスの友人でもあった。

1845年になってようやくマーサはアナーバーに住む医師から診察を受けることとなる。ミシガン大学で基礎及び臨床医学を専門としていたサミュエル・デントンという人物であった。マーサはジョセフとジョン兄弟が人には決して語らなかった恐ろしい秘密をこの医師に告げたとされる。彼女はヒステリックに「『あの人たち』が私を殺そうとしている!」と叫びすらした、と記録にはある。実際マーサはそれから間もなく死んだ。死亡するの前の晩、彼女は近所の知人宅で精神錯乱に陥った。義理の親せきが、そこに出向きマーサを引き取り、自宅まで連れ帰ったとのことだ。

マーサが死んだのは体調の悪化と精神錯乱によるものだというのが、近隣住民の表向きの認識であった。その裏で、どす黒い嫌がらせをしていたジェームスは許せない、という感情もくすぶっていた。

同年(1845年)924日、アイザック・ヴォン・ウォアトという大工がニューヨークのリビングストン郡からアナーバーに行く道すがらにあったのであるが、ここディクスボロで足止めを食らう。彼は妻と二人の幼い子供を共に引き連れていた。

1859216日付のアナーバー・ジャーナル紙によれば、ディクスボロ付近にまで来たあたりで彼らの馬車が壊れ、ヴォン・ウォアト一家は2年ほどここで滞在するを余儀なくされたとある。
馬車が壊れたとて、何もしないでいるわけにはいかない。建築中で放置されたままの家を見つけるや、ヴォン・ウォアトは自分から志願して、作業を完成させる仕事を自分にやらせてほしいと申し出る。なんとかその仕事にありつくことができた。

同時に、自分と家族の住み処を探す必要もあった。その際、地元に住む15歳のジョセフ少年の元に案内されたが、このジョセフは、数週間前に死んだマーサの長男(おそらくマーサには息子が二人いて、カナダで死別した最初の夫との間に生まれた息子)である。15歳のジョセフは母親と住んでいた家を彼らに貸すこととし、ヴォン・ウォアトと正式に契約を交わした。

ジョセフの母親マーサのことについて何一つ知らないヴォン・ウォアトであるが、眼前で何度となく幽霊の姿に遭遇するのは、一家がこの家に引っ越して三日後の夜のことであった。

1845128日、ヴォン・ウォアトがアナーバーの法務官に対して行なった公式の証言が残っている。

≪ディクスボロの幽霊伝説 (その2)に続く≫
 

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